“ あだ名禁止 ”

日本 雑記

Vol.2-2.24-407   “ あだ名禁止 ”
2021.2.24

近年、学校では子供が親しみを込めて友達を呼ぶときに使う、「あだ名」が消えつつあると言う。

もちろんこれは自然に消えつつあるのではない。
「いじめ防止対策推進法」が背景にあると言うのだが、因果関係が明確になっているわけでもないのに、漠然としたリスクを懸念して「あだ名」を禁止した。

なんという大人の浅はかで短絡的な指導指針であろうか。

そのために通常、小学校では相手の名前を呼ぶときは「さん」づけが指導されているという。しかしそうしたからと言ってイジメが減っているわけではない。

小学校なるものは自由奔放に遊び、学び、日々が楽しくて仕方ない世界だ。あらゆる物に興味を抱き、子供の目にとび込んで来るものはほとんどが新世界。柔軟な発想であらゆるものを理解し、思いもよらない発見をし、日々が未知との遭遇である。

それを、まるで鋳型に流し込むように子供を成形しようとする、言葉は思想の出発点である。それを「人間成形器」で型にはめようとする、大いなる大人の横暴である。

学校現場及び関係者は何か勘違いしていないか。勘違いでなければ、悪意をもって一つの方向に今はやりの「均一=平等」を建前とした個性の抹殺を意図しているのではないか。とさえ思ってしまう。

「あだ名」を悪い方に解釈しているとすれば考えを変えなくてはならない。

間違ってはいけないのは、親しみを込めて呼ぶために使うあだな(渾名)はいわば、ニックネームである。しかし漢字で書くと分かりやすいが「仇名」も「あだな」と読むが、こちらは悪意を意味する語で、「渾名」とは意味が異なることをまず理解しなくてはならない。

別な言い方をすれば、愛称である。たとえば、古くて恐縮だが小泉今日子の “ キョンキョン ” 、近藤真彦の “ マッチ ”、岡田有希子の “ ユッコ ” のように、アイドルを呼ぶとき “ 小泉さん ” や “ 近藤さん ” では心が弾まないではないか。

かの有名な夏目漱石の「坊ちゃん」は、あだ名のオンパレードである。これは小学生ではないが、教頭やの「赤シャツ」や美術教師の「野だいこ」、数学主任の「山嵐」、英語教師の「うらなり」、うらなりの婚約者「マドンナ」、坊っちゃんの学校の校長の「狸」。主人公の坊ちゃんは、野だいこから「勇み肌の坊っちゃん」と馬鹿にされる。、、、という具合である。

この小説に「あだ名」を省くと、何とも無味乾燥な小説となってしまう。

確かに、子供は傷つきやすい、「あだ名」という言い方ではなく、愛称といえばそこには悪意と言う意味がなくなる。

子供のことだ、頭のでかい子がいれば、「デカちん」とかつけやすいが、そのように身体の特徴とか欠点、本人が気にしているようなことは避けるのは当然である。従って学校の指導としては、あだ名には2つの意味があることを理解させ、、一律に「あだ名禁止」令をだすのではなく。本人が傷つくことのない「あだ名=愛称」ならOKである。というような指導をしなければならない。

何故、安易な禁止へと流れるのであろう。懸命に子供の世界を考えたことがあるのか。胸に手をあてて、自分の子供時代を考えたらどうなんだ。

例えば、今週のホームルームはみんなで「あだ名」につて考えましょう。なんていう授業もいいのではないか。あだ名=愛称でなければいけない。

「いいか、みんな、相手が傷つくようなあだ名はダメだ。かといってとってつけたようなのもだめだな。ちょっと親しみを込めたものでいいんだ」と諭して考えさせるのも教育現場の努めではないのか。

自分が好きな愛称で呼ばれることは嬉しさと親しさを自然と感じるものである。

何でもかんでも禁止する。悪いことしか想定できない学校現場と先生たち。本当に小学校時代の子供世界がどれほど、感受性豊かに育つ期間であることを承知しているのであろうか。

一向に減らない誹謗・中傷、ネットイジメがあると聞く。「・・さん」づけで呼びあう一見礼儀正しそうな子供同士より、子供たちが、愛称・あだ名で呼び合う子供世界の方が、よほど楽しいではないか。

ネットの世界に閉じこもってほしくない。コロナ禍でステイホームを経験して、如何に日頃友達との雑談や会食、何気ない会話の大切さを知ったというではないか。ましてや子供の世界は唯一無二、友達との遊びはかけがえのない時間である。

夢中で遊ぶ中において “ きみこさん ” では話にならない。やっぱり “ ミッキ~ ” って大声で叫んでこそ夢中になれるのである。

親しみのこもったニックネームで呼びあう姿は、横目で見てもほのぼのとする。子供から大学までの学生時代。愛称で呼び合えてこその青春時代ではないのか。