なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか

日本,,雑記

Vol.2-3.4-415  なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか
2021.3.4

『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』(著者:石平/PHP新書)

中国は近くて遠い国である。ジイの実感だ。
中国4000年とか、5000年の歴史とか言われてもさっぱりわからない。

読んだ書物といえば、吉川英治の「三国志」と、ユン・チアンの「マオ(毛沢東)」だけだ。ただ、最近のよからぬ事情から中国関連の新書や戦時の歴史書は少しばかり読んだ。

ただ、本題の「論語」や「儒教」についてはまったく知らない。

日本は、長い歴史の中で中国から受けた影響ははかり知れない。地政学的にも当然の流れではあるが、儒教、朱子学、論語などという言葉自体はなじみ深く誰でも知っている。しかし、今も「論語」は多くの人読まれているが、儒教、朱子学は死語、誰も興味すら抱かない。

それではどうして、儒教や朱子学が消え、論語だけが残り、なおかつ今も多くの日本人に愛読されているのかということだ。

かなりの日本人は、儒教=孔子=論語と同類項として見ていることが多いのではないか。実際、孔子を検索すれば、儒教、哲学者、思想家などと紹介される。

これをみれば、孔子と儒教を結び付けても不思議はない。
しかし、石平氏は長年の研究から、孔子=論語は儒教とは別物であるとした。

儒教が成立したのは孔子が亡くなって300年も後である。孔子と儒教を結びつける根拠となるものは何もない。時の王朝が教義を絶対的なものにするために、名声高い孔子を教祖に祭り上げ、儒教の元祖は孔子であり、論語を基礎としてできたのが儒教であるとしたのである。人民を統率するには最も効果的であると判断したのだと思われる。

孔子の名声を悪用して儒教という教学を作り上げたにすぎない、と石平氏は歴史を丹念に検証した結果そう確信した。

儒教の教祖に祭り上げられたのは孔子と論語にとって最大の不幸であり、歴史の不運だと石平氏はいう。儒教も朱子学もまったく論語とは別物であるという結論に達したのだ。

それでは、孔子が記した論語と言うものが何百年もの間持続して人気を博した理由はどこにあるのかということだ。

この現代の日本においても人気は衰えることがない。孔子一般的に、思想家、哲学者、聖人などと言われる。論語を聖典などという書物もある。

しかし、石平氏は、まったく的外れであると言う。
石平氏に言わせれば、孔子は「怨念、妬み、嫉妬、激情、、」など人間味あふれる人間であった。決して聖人扱いする態度は一人の歴史上の人物に対する正しい見方でもなければ、一冊の書物に対する正しい接し方でもないという。

孔子の人生を丹念にたどることによってたどり着いた孔子の人間像とは。

『まさしく波乱万丈の人生体験、豊富多彩な職業経験、その中にあってやはり知性と感受性の高い孔子は、人生や社会に対して普通の人が及ばない深い洞察を得ることになった』という。

そして、
◆人にとって懸命な生き方とは何か
◆人は、いったいどうやって穏やかに幸福な人生を送ることができるか
◆人は社会の中で生きて行くためにどのようにして人間関係を作り、どのような身の処し方をしなければならないのか、、、、等々

『まさに、「人間の問題」「人生の問題」を深く考えて、様々な知恵を生み出した。そして彼自身率先して、このような人生の知恵に基づいて自らの人生を生き、さらに多くの弟子たちにそれを教えた』いわば、聖人というより人生の達人なのである。

また、
◆いかなる極端にも走らず
◆いかなる迷妄にも惑わされず
◆いかなる神秘も語らず
いつも普通の常識から物事を考えて物事に接するのは孔子の一貫した人生の態度である。

『孔子は深遠なる理論を語る思想家や高慢な理念を掲げる理想家というようりも、現実の社会生活を穏便に送ることを常々考え心掛けている一常識人である。従って、孔子の論語は常識の書なのである。』という。

しかし、常識論でありながらも普通と違う厚みがあって奥行が深く、まさに「平凡な真理」と石平氏は表現した。

これで、論語の「善」は理解できる。

それでは儒教の「悪」である。
明王朝と清王朝の5百数年間、朱子学と新儒教と呼ばれる礼教が支配したのであるが。これがあまりにも凄まじい。

その一つが女性に対する処し方である。「女性蔑視」どころの話ではない。

<「餓死事小、失節事大」という教義である>

~ 夫が先立たれた女性がとるべき道 ~ が説かれた驚愕すべき内容である。
<守節>
1、亡き夫の残した遺子がいる場合。
  嫁ぎ先の家に留まって、遺子を成人するまで育てる。同時に亡き夫の父母に奉仕する。
<殉節>
1、夫の遺子がいない場合
  自らの命を絶つ事

夫に先立たれた女性の生きる道はこの2つしかないのである。女性が幸せに生きる権利など一顧だにしない。夫が亡くなって子供がいなければもはや生きる道はない。

この残酷な朱子学、礼教(儒教)の世界が、5百十数年も続いたのである。
これを「悪」と言わず何と言おう。
日本の室町時代から江戸、明治時代にかけての時代である。

清朝時代の260年でさえ500万人以上の女性が自ら命を絶っている。
日本の常識では考えられない、残酷にして非人間的な社会である。

幸いにして日本は、一旦は受け入れた儒教に朱子学、「女性だけを殺せばいい」という野蛮な考え方はもともと下地としてなかった。やがて、儒教・朱子学を完全に否定するに至る。

残ったのが論語である。
伊藤仁斎は論語を「最上至極宇宙第一の書」と絶賛し、根本原理を「愛」と読みとったのである。まさしく「善」の書であった。

そっか~、論語、、、読んでみるかと検索すれば、

・過ぎたるは なお及ばざるが如し
・良薬は口に苦くして病に利あり
・過ちて改めざる これを過ちという

なんだ、みんな口にしていることじゃ~ん。ということはめっちゃ日常に浸透しているということだ。
恐るべし、孔子に論語。

う~ん、“ 学べばすなわち 固ならず ”  先は短いが頑張ってみようと一応思う。

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