陰翳礼讃
Vol.2-3.8-419 陰翳礼讃(いんえいらいさん)
2021.3.8
“ 陰翳礼讃 ” 谷崎潤一郎の随筆であるが、とても昭和8年に書かれたとは思えない。
≪ 陰翳礼讃:谷崎潤一郎・中公文庫/昭和8年12月 ≫
その書き出しである。
『今日、普請道楽の人が純日本風の家屋を建てて住まおうとすると、電気や瓦斯や水道等の取り付け方に苦心を払い、何とかしてそれらの施設が日本座敷と調和するように工夫を凝らす風があるのは、自分で家を建てた経験のない者でも、待合料理旅館等の座敷へ入って見れば常に気が付くことであろう。独りよがりの茶人などが科学文明の恩沢を度外視して、辺鄙な田舎にでも草庵を営むなら格別、いやしくも相当の家族を擁して都会に住居する以上、いくら日本風にするからと云って、近代生活に必要な暖房や照明や衛生の設備を斥ける訳にはいかない。で、凝り性の人は電話一つ取り付けるのにも頭を悩まして、梯子段の裏とか、廊下の隅とか、出来るだけ目障りにならない場所に持って行く。・・・』
谷崎は明治19年、東京日本橋に生まれた。この小説が書かれたのが昭和8年、47歳の時である。
さすが、大都会東京である。
この本の主題は陰影であって、この書き出しとは直接関係ないが、ジイの育った田舎では昭和20年代ですら谷崎のいう「近代生活に必要な暖房や照明や衛生の設備」とはかけ離れた生活をしていた。ガス暖房、蛍光灯、水洗トイレということであろうが、田舎とは少なくとも30年以上の時代のズレがあると実感する。
ところで主題の『陰翳』である。
『・・・日本の漆器の美しさは、そういうぼんやりした薄明りの中に置いてこそ、始めてほんとうに発揮されるということであった。「わらんじゃ」の座敷というのは四畳半ぐらいの小じんまりした茶席であって、床柱や天井なども黒光りに光っているから、行燈式の電燈でも勿論暗い感じがする。が、それを一層暗い燭台に改めて、その穂のゆらゆらとまたたく陰にある膳や椀を見詰めていると、それらの塗り物の沼のような深さと厚みを持ったつやが、全くいままでとは違った魅力をを帯び出して来るのを発見する。
そしてわれわれの祖先がうるしという塗料を見出し、それを塗った器物の色沢に愛着を覚えたことの偶然でないのを知るのである。
・・・事実、闇を条件に入れなければ漆器の美しさは考えられないといっていい。
・・・たとえば、われわれが毎朝たべる赤味噌の汁なども、あの色を考えると、昔の薄暗い家の中で発達したものであることが分かる。
ある茶会に呼ばれて、味噌汁を出されたことがあったが、いつもは何でもなくたべていたあのどろどろの赤土色をした汁が、覚束ない蝋燭のあかりの下で、黒うるしの椀に澱んでいるのを見ると、実にふかみのある、うまそうな色をしているのであった。・・・
日本人とて暗い部屋よりは明るい部屋を便利としたに違いないが、是非なくああなったのでもあろう。が、美というものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを余儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。
事実、日本座敷の美は全く陰翳の濃淡に依って生まれているので、それ以外に何もない。
西洋人が日本の座敷を見てその簡素なのに驚き、ただ、灰色の壁があるばかりで何の装飾もないという風に感じるのは、彼らとしてはいささか尤もであるけれども、それは陰翳の謎を解しないからである。
われわれはそれでなくても太陽の光線の這入りにくい座敷の外側へ、土庇を出したり縁側を付けたりして一層日光を遠のける。そして室内へは、庭からの反射が障子を透してほの明るく忍び込むようにする。われわれの座敷の美の要素は、この間接の鈍い光線に外ならない。・・・』
今でこそ間接照明は普通である。古の昔からその手法をすでに取り入れていたとは驚きである。
田舎に帰ると、確かに、長い庇に、縁側付の家である。しかし、未だかつてそんな視点で日本家屋を見たことがなかった。
「厠」の語りはなかなかユニークである。能、歌舞伎についても、なるほどと納得せざるを得ない。
日本でも昔から肌の白さは貴人とされていたようだ。
歌舞伎での白い化粧も、派手な衣装も、昔のぼんやりした明かりの中で見ればさぞ美しさはより際立って見えたであろう。いまでは見慣れてしまった白すぎる化粧、確かにあかりを落とせば、納得の白さになるような気がする。
いずれにしても谷崎の鋭い洞察には驚くばかりである。
『陰翳礼讃』、この随筆は、日本的なデザインを考える上で注目され、国内だけでなく、戦後翻訳されて以降、海外の知識人や映画人にも影響を与えた。
フランスの哲学者、ミシェル・フーコーは、友人のジャン・ダニエルから本を送ってもらってお礼を言っている。
<谷崎の本を送ってくれてありがとう。ほんとうにすばらしいテキストです。美について語っているテキストがそれ自身美しいことはほんとうにまれです。美こそまさにこのテキストが語っていることです。しかも、このテキストには美のかたちそのものがあります。濁り水にさした光のような美が>と記している。
日本では建築家・安藤忠雄氏は建築のバイブルとしているそうである。