田舎というふるさと
Vol.2-4.20-462 田舎というふるさと
2021.4.20
“ ふるさと ” イコール「田舎」というように、自分の故郷が田舎であるためそう短絡的に思ってしまう。しかし、ふるさとが都会の人もあろう。
わが “ ふるさと ” は田舎である。
“ ふるさとは遠きにありて思ふもの ” という言い方があるが、確かに久しぶりに帰っても3日もいれば飽きてしまう、という人もいる。
ふるさとを後にした者は、都合のいい時だけ故郷を思い、辛いときにふるさとにすがり、心のよりどころに “ ふるさと ” を置く。
最近になってか、田舎に帰ると、じっくり風景を見ることが多くなった。先が短くなった老人というのは皆、人間の習性で、記憶止めようとする性のようなものが作用するのかもしれない。
確かに、昔と違ってゆっくりながく愛おしそうに見る自分がいる
“ うさぎ追いし かの山~♭ ” ではないがそんな昔に思いを馳せるのは年をとってからである。
石川啄木のように
“ ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく ”
という感情もあれば、
“ ふるさとの山に向ひて 言うことなし ふるさとの山はありがたきかな ”
と、 “ ふるさと ” には言葉で説明しきれない何かがある。
母の胎内から世に出て、初めて感じる温もりとでもいおうか、うまく表現できないが、この世に生れ落ち、初めて口にする乳、目が見え、歩き、言葉を覚え、人となじみ、感情豊かな生活が落ち着きを持つまでの成長過程に染み込んだ血のようなものか。
しかし、啄木、
“ 石をもて 追はるるごとく ふるさとを 出でしかなしみ 消ゆる時なし ”
こんな思い出を持つ啄木でも “ ふるさと ” は特別の存在なのであろう。
そんな田舎に一人で住む高齢の兄がいる。
神社の掃除をしていたら急に腰が痛くなったという。その痛みが徐々に大きくなり家に帰り横になった。
横になったのはいいが、今度は痛くて寝返りがうてない。起きる時がまた一苦労。激痛に耐え30分ほどかけてゆっくり起きる。往生こくと嘆いていた。
やっとの思いで田舎の病院へ駆け込むが原因がわからない。とりあえず痛み止めをもらって帰り、痛みを耐え芋虫のようにゆっくり横になるが、起きる時の苦痛が脳裏をよぎる。
腰は少しでも曲げれば激痛。1週間たっても一向に痛みは引かない。ついにMRIを撮った。
痛みの原因が判明、「腰の骨の骨折」であった。
痛いのは当然である。疲労骨折ということであるが、高齢である。「そんなことは老人であればよくあることだ」と医者に慰められ、もう仕方がない、時間をかけて治すしかないと腹をくくった。
コルセットを造ってもらい、今はただただ、ゆっくり歩き、横になる、芋虫のような生活だが、すでに二ヶ月。治るにはさらに二ヶ月かかるという。
2年前も全身が痛くなる原因不明の病気にかかった。歳をとるということはそういうことだ。
しかし、ここが田舎のいいところである。高級な病院はないが、“ 向こう三軒両隣 ” どころではない。村中に知り合い、友だちがいて、毎日おかずや、お菓子や食事が届く。食べきれないどだとぼやく贅沢である。
我が埼玉の田舎、両隣はわかっても三軒先すら知らない家がある。
それがいいのか悪いのか、、、
“ ふるさと ” この響きは、なかなか複雑である。帰りたい人もあれば、帰りたくても帰れない人、思い出すのも嫌な人もきっといる。
ふるさとは、やはり “ 遠きにありて思ふもの ” か、けだし名言?いや名詩である。