靖国神社が真に愛される日

日本,雑記

Vol.2-4.25-467     靖国神社が真に愛される日
2021.4.25

安倍前首相は4月21日から始まった春の例大祭にあわせて、東京・九段北にある靖国神社を参拝した。

参拝後、記者団に対し「国のために戦い、尊い命を犠牲にされたご英霊に尊崇の念を表するために参拝した」といつも通りのコメントであった。

首相時代に参拝できず、退任したら参拝できるとはどういうことなのだろうと考える。どの総理にも同じ疑問がつきまとう。

世界広しと言えど靖国批判の声はジェノサイドの中国と無法裁判を繰り返す韓国からだけだ。

戦後75年、軍隊を持たず、ただただ平和国家として誰にも迷惑をかけず、原爆への恨みつらみをいうのではなく過ごしてきた日本人が何故、中国と韓国だけに靖国参拝に文句を言われなければならないのか。

不思議なことだが、よく考えてみれば、靖国批判の火元は日本である。中国や韓国はそれに便乗し、今では批判の本家のようになっているが今でも本質は日本の反日家である。

戦後40年普通に参拝してきたのだ。それが突如靖国を問題にしたのは昭和60年8月7日「朝日新聞と社会党が中国を扇動」した結果、生まれたのが靖国批判である。

朝日新聞の加藤千洋という記者が靖国批判記事を書き社会党が中国を煽る。しかし、中国からはなんの抗議もない、朝日はそれでも批判記事を書き続ける。しびれをきらした社会党・田辺書記長がわざわざ中国を訪問し「何故中国は日本を批判しない」とばかりに中国をたきつけたのが始まりである。

重い腰を上げ日本批判を始めたら効果的面、この抜群のアイテム・靖国批判を中国は今も有効に活用しているという訳だ。

朝日新聞と社会党(現社民党)が日本憎しと考えた悪知恵が、延々と続く日本糾弾の有効な手段となった。

何故、戦後40年何も言わなかった靖国神社批判を突如言い出し、その後36年も言い続けるのか。それは、日本人がその批判を支えているからである。

考えても見よ。
今回春の例大祭に出席した安倍元総理、いつものように新聞報道はあったが、中国・韓国からは申し訳ない程度に批判コメントがあっただけだ。

騒ぎ立てるのはいつも日本。日本だけが変わらず、テンションを上げている。

面白いことに、NHK党副党首の丸山穂高衆院議員が参拝し、恐らくテレビ東京かテレビ朝日記者と思われるが、「どういう立場で参拝したのか?公人か私人か?」と質問されたという。

日本人が靖国神社に参拝するのは、バイデン大領領がアーリントン墓地に参拝するのと同じ心情である。それを日本人が聞くのである。そのこと自体、質問者の脳みそが正常ではない。

丸山氏は
「未だに昭和の遺物みたいなことを聞いとるの頭大丈夫?議員なら公人私人どちらでもあるだろ?そもそも私は私だ、公人か私人かなとど切り離すことなんぞ出来ないし切り離す意味もわからない」と怒りをにじませた。

そして「こういう私人か公人かとアホ理論をギャーギャーいう輩が沸くのも、内政関連で他国の干渉に屈するのも、伊勢神宮が参拝OKで靖国がダメなのも、非合理かつ謎縛りでアホらしきことこの上なし」とバッサリ切り捨てた。

さらに「そもそも祖国の英霊への参拝を何故、他国にあれこれ言われなければならないのか。21世紀にもなって同時期に米国アーリントンへは訪問するのに総理が靖国参拝しない・出来ない国家とか、ほんと敗戦国メンタリティの末路かよ」と訴えた。

心情はジイと同じである。
言葉使いや言い方に品格の問題ありではあるが、話す内容は日本人としてまともな心情である。

言葉遣いはさておき、あまりにもの正論に逆に丸山議員を見直してしまった。

日本維新の会に所属していた時は、若手で物をハッキリいう保守系議員としてジイは高く評価していたが、北方領土問題で「戦争で取り返すより、、、」発言で疑問を持つに至ったが、、、。

どうも、酒が入った時、抑制が効かないのが難だ。議員としての品格に疑問符がつく。国会質問に立った時の理路整然として分かりやすく、ただ反対するだけの野党とは一線を画した議員とジイは高く評価した。何とかならないのかと残念でならない。

ともあれ、靖国問題は日本の内政問題である。韓国は別として、中国が文句をいうのは、文句を言わないと、日本の親中派がうるさいからである。

誰が靖国に参拝しようと、誰かに迷惑をかけることではない。亡くなった戦没者を慰霊追悼・顕彰するため以外に何があるのだろう。それを軍国主義に結び付けるのは一部の日本人でありマスコミである。

その論法を中国にご進講したのが日本人とは笑えない本当の話である。世界の中で、自国のために命を捧げた英霊に尊崇の念を示さない国がありますか、と問いたい。

そういうと、政教分離に反すると言い出す。
日本は古来からよろずの神を信仰してきた。それを強制された感覚はない。仏教も神教も自然に生活の中に入り込んでいる。正月は神社に初詣をし、子供は七五三を神社で祝う。

人が死ねばお寺で葬ってもらい、お盆には墓参りをし、一周忌や三回忌には法要を営む。日本人に染みついた生活習慣である。そこにあえて、宗教の強制を感じる人はいない。

その証拠に今は簡素化にともない、直葬、樹木葬、海洋葬、多種多様で、どれを選ぼうが文句を言う人はいない。それこそが自由な宗教選択環境である証拠である。

家を建てるときは神主様を及びしお祓いをする。日本中の神社には祭りがつきもの、しかし、難しい宗教行事というものはない。五穀豊穣を願ったりの、これも生活に根差したものである。そこに公費で玉串料を払ったといって政教分離に反するという感覚は日本人にはない。

何とか問題にしようという意図を持った反日家の仕業以外の何物でもない。それが度重なり問題にすることによって、日本人が問題意識を持つに至る。それが反日家の目的である。日本人が自分で首を絞めてくれるまで徹底してやることが反日家の仕事なのである。

◆憲法第二十条には、
『信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。』

とある。宗教を強制されたという話は日本では聞いたこともない。生活の一部であり、そんな感覚などあり得ない。それを法文化したのはGHQのなせる業である。

ならば、A級戦犯が合祀されているではないか。そんな戦争犯罪者が祭ってある神社に行くことは戦争賛美ではないか。と反日家はいう。

バカなことをいう日本人が未だにいる。
A級戦犯という罪名は、GHQが無法裁判で勝手に分類したに過ぎない。GHQが勝手に罪状をつけて拘束された罪人は、米国の占領が終わった昭和27年には無罪放免になったのである。代表的な人物に重光葵、岸信介、正力松太郎がいるが、重光などはその後外務大臣を務めている。

何がA級戦犯だ、チャンチャラ可笑しい。

GHQ主導の東京裁判は世界史上まれに見る、国際法を無視した “ 復讐裁判 ” として世界史に悪名を止めているが、これもおかしな話である。世界の法律家はこの東京裁判を汚点として捉えているにもかかわらず、当事者の日本人だけが未だに「A級、B級」を神のお告げのように後生大事にしている。

それは、靖国神社春の例大祭に安倍元総理や丸山穂高議員のテレビ局の質問に表われている。何とか “ 靖国=軍国 ” イメージを中国と日本人の意識から消してはいけないという反日家の涙ぐましい努力である。

丸山議員はその反日意図をバッサリ切り捨てた。
それを、与党の小泉進次郎氏あたりが堂々と発言すればいいのだが、国家観は希薄である。

何とも悲しい日本であるが、ウイルスの生産者・朝日新聞は反省どころか、慰安婦問題も嘘の記事で韓国を扇動し日本批判に結びつけた。最近では福島原発事故でも嘘の記事を書いて謝罪に追い込まれている。

これほどまでに日本の批判の急先鋒が日本の新聞で発行部数第一位とは信じられない。日本人はそれほど日本批判が好きな国民なのか。いまだに、自虐史観の教科書を使い続けるところを見ると、日本人が真に日本を理解し日本を愛するようになるのはまだ遠い先かもしれない。

日本が日本人によって愛される日。それは天皇陛下が穏やかな環境で晴れて靖国神社に訪問される日であろう。

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Posted by 秀木石