血は生と死の歴史である
Vol.2-5.3-475 血は生と死の歴史である
2021.5.3
血というと生々しいが、血液というと医学的イメージが先行する。
血は恐怖と興奮の代名詞でもあり、生死を分ける根幹をも為す。
岡田明三・鍼灸師会長が『人はなぜ「血を飲むのか」』というコラムで面白く書いておられた。
『肝臓は運動に応じて筋肉に運ぶ血流量を変えている。筋肉の種類には「白筋」と「赤筋」があり、白筋は短距離走など瞬発力を必要とする無酸素運動に特化した筋肉。赤筋はマラソンや水泳など持続力を必要とする有酸素運動に特化した筋肉。
赤筋は名前の通り赤く、白筋は白い筋肉。マグロやカツオなどの回遊魚は泳ぎ続けないと死んでしまうため睡眠時も低速で動き続けるため、赤いお刺身(赤筋)となる。
一方、タイやヒラメは獲物を見つけると瞬発力を活かして急接近し捕食する。そのため、瞬発力に特化した白いお刺身(白筋)になる。』、、、という。
従って、
・白筋は短距離走など瞬発力を必要とする無酸素運動に特化した筋肉。
・赤筋はマラソンや水泳など持続力を必要とする有酸素運動に特化した筋肉。、、だそうだ。
さらに、肝臓は臓器の中で唯一「自己再生機能」が備わっていて、正常な肝臓であれば手術で70%近くとっても、2週間程度で元の重量に再生すると書かれていた。驚くべき機能だ。
てなことで、岡田明三氏は肝臓と血液の栄養素となるタンパク質を取り入れた食生活を大切にしようと推奨している。
時代は定かでないが、昔から「究極のタンパク質」として人間や動物の血を酒で割って飲んでいた時代があったというが、知ってか知らずか人類は血を飲むという究極のタンパク質の摂取を昔からやっていたのだ。
日本でも昔は蛇や亀の血を飲む習慣があったことを聞いたことがる。
中国では鹿の血を飲むと長生きするとして飲まれたり、コブラの鮮血が飲まれている。さらに、人気の血のごちそうに、豚の血を豆腐状に固めた「血豆腐」がお粥に入っている広東の「豬血粥」があるそうだ。
そう言えば思い出したことがある。
中学時代、高木先生という面白い先生がいた。必ず授業に世間話をしてくれた。
その時は中国の話だった。
『中国ではねえ、ネズミの赤ちゃんを食べるんだ。生まれたばかりの柔肌の赤ちゃんを大きな鉢にたっぷり醤油を入れ、そこに産毛もない生まれたての赤ちゃんを入れる。醤油を吸った赤ちゃんをそのままに口に運ぶ、噛んだ時に “チュ~ ” という。これがたまらないらしんだ 』何とも生々しい中国らしい話である。
生き血どころか、日本でいうシロウオの踊り食いのようなものだ。勉強はほとんど忘れたが、この話だけは決して忘れない。
韓国では、牛の血を凝固させたゼリーのような「ソンジ」を鍋に入れて食べる。
チベットでは凝固させたヤクの血が好まれる。
ヨーロッパでは血のソーセージが好まれたりと、様々に血は食されている。
『血』はからだ全身の細胞に栄養分や酸素を運搬し、二酸化炭素や老廃物を運び出すための媒体だと思ったら大間違いなのだ。
血は文化とも密接である。
「血」は親子関係、親族関係、遺伝に結び付けらる。例えば、「血統」「血脈」「血族」「血のつながり」や「血縁」といった表現がある。
宗教には生贄という儀式で、血液に特殊な力があると信じられ、家畜の血を神像や自分の体などに振り撒くこともある。
ユダヤ教では血液は生命であるとされ、食べることが禁じられている。
キリスト教では、イエス・キリストは最後の晩餐の席において、パンとブドウ酒を手にとって、それらが、自分の体であり、「多くの人のために流される契約の血」として、自分の死を弟子たちに教えた。
キリスト教の成立後、ミサでパンとワインを分け合うこの儀式は、キリスト教でもっとも重要な儀式のひとつとなっている。
所謂血のイメージは、人間の根幹に関わるすべてに及んでいる。
一般的には、負傷時に体外に流れ出るものとして、ケガが身近である。しかし多くは、戦争や暴力の象徴として用いられる。例えば「血の日曜日」「無血革命」などといった表現。あるいは「血の気が多い」「血気盛んな」といった表現や「血判状」など決して穏やかに使われることはない。
たまたま読んだ「命がけの証言」なるマンガは中国のウイグル暴虐の告発本だが、血の匂いが充満していた。
血は正に人間の歴史の「生と死」を語る証言者でもある。