子どもは宝

日本 雑記

Vol.2-5.5-477     子供は宝
2021.5.5

今日は “ 子供の日 ” 。

今でもよく見るこの時期の風景は “ こいのぼり ” だ。

歌もある
ーこいのぼりー
♭~やねよりたかい こいのぼり
おおきいまごいは おとうさん
ちいさいひごいは こどもたち
おもしろそうにおよいでる~♯

子供の日は字のごとく、子どもたちの病気や災いを避け、子どもの健やかな成長を願い母にも感謝する日が子どもの日だ。

コロナ禍でなかなか会えなかった孫たちが遊びに来た。
知らない間に、自転車にも乗れるようになり、水泳教室に通う2人はかなり上達し、お兄ちゃんは50mまで泳げるようになったという。

つい最近までオムツをしていたような記憶さえある。それが、自転車に乗っている。ジジイになると時間の経つのはかにも早い。

小さな庭で大きな声ではしゃぐ声に誘われるようにお隣の奥さんが出てきて、フェンス越しにしばらく孫たちの話題で楽しんでくれた。

コロナ禍の中でも元気でいてくれるのが何より嬉しい。本能の欲すままに楽しもうとする子供らしい動きの中に、時には奇声を発し、訳もなく高笑いをし、キャーキャー、ガーガーにぎやかで騒々しいことこの上ない。

子供は正直だ、明るさは幸せの中にいる証明だ。ただ、ダダをこね思うようにならず発する奇声は耳障りだが、その声とは明らかに違う。

この騒がしさと元気さが何とも言えず楽しい。これが静かで親のいうことを聞き、何一つ迷惑をかけない子どもであったらなら、きっとかすかな心配と寂しさが先だつのではないか。

子供が子供でいてくれて本当によかった。親の心配しない子供であったら、きっとどこかおかしいのであろう。自由奔放で有り余るエネルギーを発散しながらケガや失敗を経験し危険を体得していく。

恐いもの知らずの子供のエネルギーほど楽しい躍動感はない。決して大人ができないことだ。笑い転げる姿は屈託のない天使そのものである。

保育園や幼稚園がうるさいという苦情があるという話を以前聞いたことがある。子どもがうるさくなければ子どもではないのであって、それをうるさいというのはどういう人間なのかジイはわからなかった。

きっと子供が嫌いなのではない。子供の笑い声は幸せと、喜びの象徴である。その幸せの叫びが気に障るのではと推測するが、かなり身の上の不幸を抱えておられる方であろう。

ジイが病床に伏していた時、ラジオから聞こえる元気なラジオ体操の音楽が、元気づけてくれるどころか気に障ったことがあった。まさにそんな心境ではないか。

子供が欲しくてもできない夫婦もいる。我が友人にもどんなに頑張っても出来ない夫婦がいた。二人は涙ぐましいほどの努力をしていた。明るい男だったので深刻性は感じなかったが、だからといって、この夫婦は他人の子どもをうるさがるという人間ではなかった。

保育園で、あるいは幼稚園で楽しくもないのに笑う子供なんていない。気を使って笑うほどまだ成長するような歳ではない。そのことを考えると、小さな天使の集まりである。ただ、なかには虐待を受けている可哀そうな子もいるかもしれない。その子は例外としても子供は笑って遊んで、はしゃいで疲れを知らないエネルギッシュなものである。

その、幸せが気に入らない人がいる。ということだろう。“ 他人の不幸は蜜の味 ” という人間の本性を語る言葉があるが、これとは若干違う。“ 除夜の鐘 ” がうるさい、と文句をつける人種と同根である。

心の余裕を失い、自分の人生を悔い悲しみ、希望を亡くした人の心がそうさせるのであって、ある意味可哀そうな人である。世間への恨み、嫉妬、妬み、等々いかにも屈折した心理に陥った人ではないだろうか。

今もっとも熱い NHK 大河ドラマ「青天を衝け」の渋沢栄一は実に爽快である。己の利益だけでは幸せにならない、同じように相手が、あるいは多くの人が幸せにならなければ本当の幸せではない。この根本原理が渋沢を突き動かした。

人間なるもの、なかなか晴天のように雲一つない “ 青天の心 ” を持つことは至難の業である。

まさに子供と称するひとけた台の子供の姿は青天の手本である。

例えば、画家たちはいかに子供の心根で描くかに苦心した。天才画家はまさに子供の心に最も近付いた稀なる人間である。

今日は子供の日、誰もがあった子供時代。真っ白なあの日を思い出してみるのもいいかもしれない。

“ この里に 手鞠つきつつ子供らと 遊ぶ春日は暮れずともよし ” ・・・良寛