差別と自由主義
Vol.2-5.25-497 差別と自由主義
2021.5.25
昨今、世界では
「同性愛や同性婚を反対することは差別である」と主張し、欧米諸国では相次いで、同性愛者などLGBT(性的少数者)に対する差別を禁止する法律が制定されているようだ。
日本でも現在、超党派でLGBT理解増進法案を国会提出する動きがあるようだが、何でもかんでも欧米に追随する必要があるのか、ジイなどは疑問に思う。
男でも女っぽい人、女でも男っぽい人はいる。その人を差別しようとは思わないが、男同士が愛し合う、というのは昔から聞いたことはあるし、それに近い危険を感じたこともある。
しかし男同士、あるいは女同士が結婚するとなると話は違う。人間生まれながらにして男と女は肉体の形状も役割も違う。神は生命をこの地球上に送り出すについて、よく考えてオスとメスに区別してこの世に送り出されたのだ。
ただ、オスであってもメスのようなものもあり、逆もしかりだ。しかし、この世に子孫を残すにはオス同士、メス同士では不可能である。命あるすべてにおいてオスとメスの原理を超えることはできない。
しかし近年の動きは、高度に発達した人間の脳による、秩序破壊の企てのように思える。
自由主義社会において、他人に迷惑をかけないものであれば、何でもありの世界になりつつあるが、同性婚だけは生命の原理に反するのではないか。結婚という形にこだわることはない。同棲すればいいことではないか。それをとやかく言うつもりはない。ただ、法律を定めて同性婚を認めよというのは生理における秩序の破壊ではないか。
弘前学院大教授・ヤン・サンジン氏によれば、英国では2010年に制定された平等法の影響で、学校には同性愛、同性婚とトランスジェンダーリズム(個人の主観的な認識に基づいて性別を選択して決定すること)が正常であるということ、そして男女以外のさまざまな性があることを必ず教育することが義務付けられるようになった。という。
要は、「普通の男女間の結婚だけを教える教育を選ぶ権利は、親には認められない」という。そんなことがあっていいのかという疑問だ。
民主主義社会とは、どんな政治・社会・経済・教育の問題であれ、誰でも自分の意見を正々堂々と発言できる社会であるはずだ。とヤン教授は指摘したのだ。
日本はすぐに何でもグローバル化に弱い。このLGBT問題。他国に迷惑をかけない程度に日本独自の道があるはずだ。
参議院議員の山谷えり子氏が「体は男だけど自分は女だから女子トイレに入れろとか、女子陸上競技に参加してメダルを取るとか、ばかげたことがいろいろ起きている」と発言したことに朝日新聞が批判している。何でも欧米意見が正しいとする固定観念にとらわれているとしか思えない。
アメリカでもLGBTに批判的な意見は差別として批判の対象になるケースがあるというが、その批判こそが差別ではないか。多様な意見を尊重するのが欧米の自由主義であるはずが、LGBTのような少数派が主張する権利のみが絶対的に優先されるものではあってはならない。
自由主義社会とはやっかいなものだ。
ヤン氏は「性的少数者もそうでない人も等しく国民である。一方の意見だけを認め、もう一方の意見は存在すら認めないのでは、差別を解消するどころか反対派への逆差別を生むだけである。」と語ったがその通りである。
世界の意見を大いに参考にするのはやぶさかではないが、日本には日本らしい生き方がある。欧米がやることがすべてスタンダードなのか、疑問である。
世界に迷惑をかけない程度に、日本独自の文化。正しい区別はあっても差別のない自由な世界を目指す。それはいけないことなのか。