天安門の闇

世界,日本,雑記

Vol.2-6.6-509   天安門の闇
2021.6.6

天安門事件は、1989年6月4日(日曜日)に中華人民共和国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していたデモ隊に対し、軍隊が武力行使し、多数の死傷者を出した事件である。

民主化を求めるデモは、改革派だった胡耀邦元総書記の死がきっかけだった。

胡耀邦の葬儀までに、政治改革を求める学生を中心に約10万人の人々が天安門広場に集まった。自由を渇望していたのであろう。リーダーがいたわけではない。デモは最初は天安門広場でのちに上海市を含めた国中の都市に波及していった。

ついに鄧小平中軍委主席が動いた。北京市に戒厳令が布告された。
武力介入の可能性が高まり学生たちに対し、デモの平和的解散を促したが、若者の自由への熱情は首都機能を麻痺させるに至った。

悪夢の始まりである。1989年6月4日未明、中国人民解放軍は兵士と戦車で北京の通りに移動した。武力によるデモ隊の鎮圧が始まった。容赦ない武力弾圧である。

中国共産党の公式発表では、死亡者319人だが、駐米大使のメモによれば1万人は下らないということだ。未だ真相は不明。闇の中である。

32年の時が流れた今年も6月4日は天安門広場を中心に厳戒態勢が敷かれた。香港だけは毎年追悼集会が行われていたが、今回はコロナを理由に許可されなかった。

ニュースで見られた方も多かろう。戦車の前に学生が立ちはだかる映像はリアルである。学生や市民はあのように戦車で無惨にひき殺され、無差別に銃撃を浴びたのである。

当時、在中華人民共和国日本国大使館にて情報収集を統括していた笠原防衛駐在官による詳細なメモが残されていた。

それによると、死傷者数は不明であるが、「実弾発射はほぼ間違いない」、「解放軍による射撃にて市民が逃げ出す」、「戦車が射撃しながら天安門広場に突入し、広場にいた学生を一掃」など書かれており、血まみれで倒れる女性の姿、装甲車にてひき殺されたり、一斉発砲する兵士など当時の流血の北京の状況が判明している。

元駐中米国大使ジェームズ・R・リリーは自らの著書の中で、天安門広場から完全にデモ隊が放逐された後に、中国人民解放軍の手によって死体が集められ、その場で焼却されたと述べている。また、約300名の民主活動家がパリに亡命した。と記した。

中国のお家芸、情報統制が強化されたため、事件に対する詳細な報道はほとんど行われていない。

事件から30年以上が経過しているが今なお情報操作が行われいる。
◆中華人民共和国内の検索エンジン(Yahoo!やGoogle、MSNなど)では、「六四天安門事件」などの特定のキーワードで検索すると、接続不可能になる。
◆国内向けの衛星放送などで海外メディアが天安門事件を報じると突如放送を停止させる。
◆外国人カメラマンが6月4日前後に天安門広場を撮影できない。
◆当事件における学生運動の主要メンバーであった劉暁波のノーベル平和賞受賞の妨害。

このような統制下にあり、本件以降に学校教育を受けた世代は、事実をほとんど知らない。

中国に不可能はないと言っても過言ではない」。
“ 都合の悪いヤツは抹殺、もしくは投獄する ”
“ 都合の悪い事実は隠ぺい もしくは都合よく書き換える ”
“ 都合の悪い人種は都合よく矯正する ”

世界は中国のために、これが中国である。
この厄介な国と、日本は経済的にあまりにも密接になりすぎた。
この大国が民主主義国家であったら、なんと幸せなことだろとうと思ってしまう。

仮に相思相愛、同じ価値観で生きていれば、アメリカ、EU、に並びうる極東経済圏を築けたことだろう。きっと東南アジアを含めた一大経済グループで世界を牽引したことは間違いない。

過去を悔いてもどうにもならない。
今はただ、この巨大化した狂気の悪魔をどう矯正するか、かなり困難な時代を迎えた。

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