女性らしさは悪か

日本 雑記

Vol.2-6.15-518   女性らしさは悪か
2021.6.15

昔からフェミニストたちによって唱えられてきた「男女平等」と、現在の「ジェンダー平等」は変わらない。と評論家・小浜逸郎氏は語る。

産経新聞に掲載された小浜氏のジェンダー論考には膝を打った。

昔からあった「男女平等」、今「ジェンダー平等」と言葉を変えただけの話である。

しかし昨今は、しばしばこの平等原理で男女関係の問題をすべて割り切ってしまおうという、行き過ぎた傾向が目立つ。と小浜氏は指摘する。

女性差別とか偏見とか簡単に言っても、どういう処遇や振る舞いがそれに当たるのか、ハッキリした線引きがあるわけではない。

そこで、混乱を避けるために、究極的には性差そのものを否定するという思想に行き着いてしまう。

差別と言っても「女性がそう感じたら」ら差別であって、感じなければ差別ではない。そこで面倒くさいから「ジェンダー平等」などというまるで斬新な思想であるかのような言葉で、不確かな混乱をあえて起しているような気がする。

ジェンダーと言う言葉、当初は「機会の平等」である。つまり、チャンスは男女で差別があってはならない。ということだった。ところが最近では男女すべてが平等でなければならないという極端な思想へと変遷した。

小浜氏の言う、行き過ぎた傾向である。
「ちょっと冷静に考えてみたら」ということか。

小浜氏の象徴的な言葉をいくつか拾ってみた。
・男女の非対称性は半面、共同生活の役割分担と考えることもできる。
・男女の性差があるからこそ、それぞれの性にとっての幸福の可能性もう生まれる。
・異性なる性のあり方を、互いの交流を通じて深く理解し合うところに、その克服の道も生まれる。
・男と女の関係のあり方を、平等・不平等という概念だけで把握できるものではない。
・個別の男女が渡り合うエロスの領域では、この把握は必ずしも成り立たない。
・一般社会の領域でも、より男性向きの職業、より女性向の職業といったものもおのずと存在する。例えば、兵士やトラック運転手。あるいは看護師や保育士などは、放っておけば自然と男女のいずれかが多くなる職業が存在するということだ。
・国会議員に女性が何割いるかによってその社会の進歩度合いを測るといった考え方は、欧米由来の粗雑なイデオロギーであって、決して正しい見方とは言えない。仕事が要求する適正と脳力によって決定されるべきだから。

以上のようなことは常識的な男女ならわきまえていることである。

問題は、その常識的な感覚に基づく議論が息を潜め、それと正反対の議論だけが政治やマスコミの場で行われていることだ。、、、と指摘した。

さらに、男らしさ、女らしさを捨てなければ自由や人権を守れないのだろうか。と疑問を呈した。

ジジイはそんなことはないと思う。小浜氏も言うように、大多数の常識的な人間は、今、マスコミが騒ぐほどジェンダー平等に浮き足立っているわけではない。声の大きいフェミニストとマスコミの扇動がある。

困るのは政治の欧米崇拝が未だに残っていて一部の政治家が、グローバルという言葉に洗脳され冷静な判断力を欠いていることが原因であると思う。

女性がダンプカーを運転して誰も文句をいう日本人はいない。芸能界では女か男か不明な容姿のタレントは山ほどいる。

日本国内において、健康で能力さえあれば、職業の選択に不自由など何もない。今、騒いでいるのは行き過ぎたジェンダ-思想推進者による扇動である。

昔から言われる「男らしさ」や「女らしさ」さえ、まるで過去の遺物のように捨て去り、まるで「グローバル」という未来船で「ジェンダーフリー」という神のお告げが届けられたような様相である。

グローバル化をまるで金科玉条のごとく捉え、冷静さを欠いた政治家の動きが最も心配である。