コロナオリンピック

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Vol.2-6.23-526   コロナオリンピック
2021.6.23

オリンピック開催まであと1ヶ月となった。

7月23日(金)午後8時 オリンピックスタジアムにていよいよファンファーレが鳴り響く。そう聞いただけでも胸は高鳴る。

コロナ禍の中、オリンピック開催には賛否両論がある。昨年の7月ならまだしも現在置かれた世界の状況を見るにつけ、開催国の責任として、中止する選択肢は考えられない。

ワクチンが開発され、国によってはマスク義務さえ解除されている。世界の感染者は一部の国を除き激減しており、既に経済活動を本格化した国さえある。

先日、産経新聞にオリンピック開催に関し3人の識者によるインタビュー記事があった。

◆奈良女子大准教授・石坂友司氏
われわれは五輪を通じ、アスリートから多くの価値を享受してきた。メダル獲得やパフォーマンスへの感動だけでなく、困難を乗り越えてきた彼らの物語を、自分の人生に重ねて勇気づけられた人もいる。暮らしや社会の中で「文化」と位置づけてもいいほど、彼らの存在は大切だ。

五輪はさまざまな組織と人が関与し、それぞれが利益を最大化しようとするメガイベントだ。全てのスポーツ産業は商業主義を抜きにして語れず、特に五輪は放送権者やスポンサーの影響を受ける。

IOCが貴族的体質を批判されてきたのも事実だ。しかし、収入の9割はオリンピックムーブメントや国際競技団体、恵まれぬ地域のスポーツ支援に向けられている。

多くの問題をはらみながらも、五輪がスポーツ界全体を支える構図を無視すべきではない。

中止で全てが片付くわけはない。苦い経験をした東京が問題点を世界に発信してこそ、これからの五輪をいい方向に導ける。

◆北京五輪メダリスト・末続慎吾氏
五輪に向き合っている人たちと、五輪に否定的、無関心な人たちが分断され、それぞれ自己完結的で相互理解がない。“平和の祭典”を招致しておいて、皆の仲が悪くなるなら本末転倒だ。

五輪の開催が危ぶまれてきたのは、あくまでコロナ禍のせいだ。アスリートは変な責任を感じる必要はない。そして、言葉を発する勇気を持ち合わせていてほしい。

五輪本番で自分のプレーが終わった後でもいい。それまで抱えてきた葛藤、つらかった心情、言えなかったことを口にしてほしい。

アスリートのパフォーマンスと、体験から絞りだされる生々しい声が「コロナ禍」の意義を浮かび上がらせると信じている。

◆スポーツライター・小林信也氏
「国民の命を犠牲にする気なのか」といった声があがり、多くの国民が、政府へのいらだちや憤りをぶつけるように五輪中止を叫んでいる。

しかし、いたずらに不安な気持ちに負け、一度世界に約束したことをやめてもよいのか。現状われわれがすべきことは、どうやったら開催できるのかを真摯に模索することではないか。

日本社会が大きな不安を抱えたときに具体的にどう対応し、前に進むのかを学ぶチャンスでもある。

最初からやらないと決めつけていては何も生まれない。前向きに動くからこそ発見や創造がある。不可能だとわかったらやめる勇気も必要だが、大人たちが前に進むことが、日本全体の活力につながっていくはずだ。

スポーツは筋書きのないドラマといわれるが、最善の努力をしたその先には、想像もできない成果が生まれる。

・・・という3者の話だが、ここに反対者の意見はない。
反対者の意とするところは、小林氏の言にあった「国民の命を犠牲にする気なのか」という国会で叫んだ野党議員の声に集約される。

彼らが、国を率いる責任者であったら本当にそうするのであろうか。国家愛もなければ開催国としての責任のひとかけらも感じない空しい叫びに思える。

「国民の命」この言葉を “ 水戸黄門の印籠 ” のように使う反対者。もし戦わずして得られる「安堵」というものがあるとすれば、日本国民に何をもたらし、その先には何があるのか。

そこには戦わずして得た、後味の悪い空虚で空しい静けさだけが残るような気がする。

世界が東京に託したオリンピック開催。世界が期待した団結も、情熱に歓喜、夢に希望、涙に感動をも奪った責任をコロナだけに負わせるつもりだろうか。

オリンピック開催を引き受けた責任はそんな簡単なものか。金銭的な損失も莫大であろうが、それ以上に日本は世界に向け、堂々と究極の選択であったことを発信できるのか。

危機に立ち向かわなかった空虚で後ろめたい虚脱感だけは味わいたくない。

コロナ禍で大変な状況ではある。しかし、コロナが終息に向かう雰囲気の中で絶好の環境を神が与えたような気がしてならない。立ち向かう以外ないではないか。

さあ、あと一カ月。国民一丸となり、コロナオリンピックを歴史に残る大会にしたい。改めてそう思う。