大相撲名古屋場所

スポーツ,日本,雑記

Vol.2-7.19-552   大相撲名古屋場所
2021.7.19

大相撲名古屋場所が昨日千秋楽を迎えた。

予想通り、横綱・白鵬と大関・照ノ富士の全勝対決で幕を閉じた。さすがである横綱・大関の闘いは迫力あった。

ただ、心から喝采できない何かを残したことも間違いない。

仕切りから二人の闘士は漲っていた。さあ、時間いっぱいとなっていざ決戦と言う時にさらに数十秒に及ぶにらみ合い。近年にない集中力と勝負にかける緊張は見るものにとってはこれ以上ない大相撲の醍醐味である。

いざ、立会い、両力士がぶつかり数分のつばぜり合いの末に白鵬が照ノ富士の左腕を強引に抱え込み力任せに小手投げに打って出た。手が折れるのではないかと思うほどの小手投げはかなり決めに入った感があったのか、照ノ富士は我慢できず土表に這った。

勝った瞬間の白鵬の血相たるや、今なお語り継がれている横綱貴乃花と武蔵丸の「世紀の一戦」に重なった。

ちょうど今から20年前、2001年5月場所千秋楽に、膝に怪我を抱えた貴乃花が鬼の血相で武蔵丸に勝った時の顔がまさにその顔である。

小泉総理大臣は総理大臣杯を渡す時に「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!」と発した有名なシーンである。

今回は大相撲でなく、格闘技に様相を変えたことだ。張り手、肘鉄など横綱という最高地位にある人間のあるまじき技?が繰り出されたことだ。白鵬の時代になってからこの横綱の権威に付随して備わる、風格や品格が失われつつあると感じる。

今場所でも、張り手は毎日の如く使われ、大関・正代との相撲では、まるで平幕力士が横綱に用いる奇襲作戦を、横綱自らが大関との大一番にやるとは前代未聞である。

いざ、立会いと言う時に、仕切り線から土俵際まで下がって仕切るとは横綱とは思えない恥ずかしい姿である。日本人の役力士ではできない芸当だ。

大相撲は横綱・白鵬の相撲で変わりつつある。
日本人力士は勝負への執念、研究、集中力においては大いに学ぶべきであろう。しかし、品格には程遠い姿に日本の相撲道からは遠ざかりつつある。

横綱にかぎらず、お客様を前に神事を披露する舞台は神聖な土俵である。しかるに全ての力士は土俵を前にお辞儀をするのである。

土俵は神事の象徴である。場所前の土俵祭には神に捧げる勝栗や昆布、米、スルメ、塩、榧の実が神への供物として埋められている。神主のお祓いがあって初めて土俵が土俵たる尊厳をもってそこに存在するのである。その上で相撲と取るとすれば自ずと神聖にならざるを得ない。

土俵にお辞儀をして入った時から何時でも勝負できる心技体でなくてはならない。

土俵に上がってまで、体操をしているようでは雑魚である。どこに泰然とした風格があるのか。大関、横綱となれば、角界の憧れでなくてはならない。貴乃花あたりまでは土俵上で体操するような仕草など見たこともない。

大相撲に外国人が入ってきたのをとやかく言うつもりはないが、国技である相撲の神事の部分が完全に抜け落ちつつある。

日本相撲協会の規約の中に、「・・・太古より五穀豊穣を祈り執り行われた神事(祭事)を起源とし、我が国固有の国技である相撲道の伝統と秩序を維持し継承発展させる・・・」とあるように、地方場所に行けば、必ず地元の神社に土俵入りを奉納する。その意味はどこにあるのか、横綱は理解しているのであろうか。

横綱土俵入りについて「手を二つ打つ、次に足を三つ踏む、これにより天地長久を祈り、邪気を払い地を清める」のである。意味を込めればいい加減にしていいはずはない。

相撲協会は相撲に宿る神事をいい加減にせず、相撲が国技であることを力士には徹底して教育しなくてはならない。でなければ、ただ “ まわし ” つけた相撲レスラーの格闘技に成り下がる。

その背景には、日本人力士の不甲斐なさにも原因はある。長い間、一人横綱の白鵬におんぶされてきた相撲協会は面と向かって言うことができないのであろう。

名古屋場所の幕内力士を見る限り4人に一人が外国人である。内モンゴル人は7名。前頭5枚目の豊昇龍などは、朝昇龍の甥でもありなかなか強い。いずれ大関、横綱になるだろう。いつの日か横綱、大関はすべてモンゴル人で埋め尽くされるかもしれない。決して夢物語ではない。

日本人の不甲斐なさは今場所に限ったことではない。モンゴル人に見習うべき点は数多くある。ただ、誇りある相撲道に足を入れたからには、「神聖なる国技としての相撲道」への理解が必要だ。

本来なら日本人力士の横綱・大関が見本になって相撲道の完成である。しかしその期待は当分叶いそうにない。

相撲協会に言いたい。今一度大相撲は日本の国技である。相撲道はどうあるべきかを真剣に考え、権威をもって正しい相撲道を心得た力士の育成に力を注いでいただきたい。

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