オリンピックと日本らしさ

オリンピック,日本,雑記

Vol.2-7.29-562    オリンピックと日本らしさ
2021.7.29

オリンピック悲喜こもごもであるが、随所に日本らしさを見る思いがする。

コロナ禍での聖火リレーも極度にコロナを意識した質素なもので、中には沿道でのリレーを中止した地域もあった。

コロナを意識した無観客もしかり、すべて極端に動く日本の姿は一見、潔癖症からくるものとも思えるが、柔軟性を欠いた視野の狭さも感じる。反面、人種差別もなく多様な人種を受け入れる国民性は柔軟性がある様にも見える。

今、本当の日本人の姿が見えにくくなっている。元来日本人は農耕民族として多くを語らずともあうんの呼吸と和の精神で穏やかな生活を送っていた。その土壌に日本人の精神文化が育まれた。

ところが、昨今は声の大きい少数派に先導を握られた感がある。

様々な現象を冷静に見てみると、日本らしさが消えつつあることに気づく。

島国としての長い歴史は独特の文化を生んだが、明治に一気に開国した日本は異国は学ぶべき対象となった。戦争の時代を経て得たものは、勝者による敗者文化抹殺と自虐史観の洗脳は素直な日本人にスポンジに墨を落とすがごとく、自虐と外国崇拝が浸みついた。

かくして、誠実で勤勉は残しつつも、独自文化の軽視、発信にはかくも消極的な日本人となった。

今オリンピックで日本人の素直で正直な性格が如実に出たのが卓球の試合だった。

中国もシンガポールの選手も他の外国選手も、実にクールである。自分の心を読まれないようにポーカーフェースを装う。それに対し日本人選手の表情はその心理が手に取る様にわかる。

「あぜり、まずい、苦しい、気合を入れなきゃ、うんもうひと踏ん張り」すべて表情から心の在り方すべてがテレビ画面に翻訳されているようにわかるのである。

石川選手とシンガポールの「ユ」選手との闘いはその典型のようだった。

日本人の素直さや正直さは大切なものだが、こと試合になると表情も情報戦の一つであることを認識しなくはならない。最終セット石川選手は見るからに冷静さを失っていた。わずか2点しか取れず沈んだ。

逆に、自信をつけた選手がとてつもなく大きな力を発揮したのが大橋選手のメドレー2000mだった。本人は2つも金メダルが取れるとは思っていなかったのではないか。勝利の瞬間「やってしまった」とばかりに口をとがらした表情がその心情を如実に語っていた。

自信と余裕が生みだすリラックス効果は筋肉を躍動させる効果があるのだろう。さらに強い心はプラス効果を発揮、期せずしてタッチの差での勝利を勝ち取った。

エッセイスト・竹内久美子氏のオリンピックにまつわる新聞のコラムがあった。

1964年の東京オリンピック。作家の三島由紀夫氏は「やっぱりこれをやってよかった。これをやらなかったら日本人は病気になる」という言葉を残したと記していた。

さらにその6年後三島は
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことはできない。このまま行ったら『日本』は日本でなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれらくなっているのである」
今から51年前に三島由紀夫の残した言葉である。

竹内氏のコラムには「1964年の東京五輪も、長野五輪も、2019年のラグビーワールドカップも、メダル授与式の衣装は日本の伝統的な美しい振袖であった。その美しさは世界が羨望の眼差しを向けた」と書かかれている

日本らしさを世界に発信するのに『綺麗な振袖』を着た日本人の授与は格好の材料であろう。らしさをなくした一例である。多様性を受け入れる日本人を発信したことはいい、しかし、伝統大事にしながら未来を融合する日本もある。

今はニュートラルな日本になりつつある。日本らしさのない開会式をデヴィ婦人も北野武氏も嘆いた。

今回のアスリートは大会が終わればさっさと帰国しなくてはならない。せめて、日本の綺麗な振袖姿でメダルを渡す優しい配慮はなかったのか。残念である。

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