役者人生70年

日本,雑記

Vol.2-12.13-699    役者人生70年
2021.12.13

昭和27年、GHQの占領から解放された年、俳優座付属養成所に入所して仲代達矢の役者人生は始まった。

今年で役者人生70年、89歳にして現役である。

ジイの仲代達矢経験は、今から52年ほど前になる。岐阜のとある映画館で見た、「人間の条件」である。第1部~第6部まである長編だった。1、2部で3時間、3、4部で3時間、5、6部で3時間、合計9時間の映画を徹夜で見た。

3時間ごとに30分の休憩が入る。さすがお尻が痛くなったことを思い出す。終わってみれば朝8時。後にも先にもこれほど長い映画を一気に見たことはない。若くしてできたことである。

その仲代達矢氏が「我が役者人生」として週刊文春で語っている。

「・・・八十を過ぎますとね、名優なんて言っていただけるんです。しかしそれはとんでもない話でね。昔からいう “ 一声、二振、三姿 ” ――振は動作ですねーー演劇役者の基本です。声のほうは日ごろから訓練してるのでどうにかでますけれども、足腰は若い時と比べるとだいぶ参ってますよね。私にとっては現役の役者を続けて行く一番の課題です。」と語りながら、

「いちばん幸せなのは、この人はうまいなあと感じて、それにくっついて行こうと思う時。これは快感ですね。振り返ってみると、ずいぶんうまい人たちと一緒にやってきたなと思います。相手役によりますよ、それは。自分も頑張らなきゃいけないけれども、相手とあわなければうまくいきません」

そんな時、頭をよぎるのが、昭和の大女優、山田五十鈴さんのことばだという。

「自分の台詞を覚えるより相手の台詞を思えなさい」と言われた。
「・・・相手を受けて返していく、それが芸の力なんです。大切なのは相手の気持ちを察していくことですよね」

そして育てられた4人の名優を語った。

<三船敏郎>
“ 世界のミフネ ” と黒澤映画の『用心棒』で共演。撮影は毎日が興奮状態だったと語る。びっくりしたのが、三船さんはリハーサルの時から台本を持たないんです。撮影開始になっても台本をいっさい見ない。・・・それを私も見習って撮影に入ったら台本を投げ捨てるぐらいの勢いで、他の作品でも現場に台本を持ちこまないようになった。

<三国連太郎>
私の役者人生を振り返ってみても、やはり一番好きな映画は『切腹』です。その時の相手役が三國連太郎さんでした。
ある時、三國さんが「仲代くん、私は君がこう演るだろうと思って演技を考えてきたんだ・・・稽古しよう」と言うんです。撮影中にですよ。それで「稽古したいからスタッフの人は外で遊んでてください」と。すると小林正樹監督は心得たもので「じゃあやっといて」と言って、みんなで飲みに行くんです。・・・・
できあがった作品を観ると、実に見事な三國さんの演技でした。

<勝新太郎>
『座頭市あばれ火祭り』は、登場シーンの半分くらいは足もとしか映らないような面白い役でしたが、私は好きでね。・・・・・勝さんの立ち回りも非常に上手でしたね。その日その瞬間に考え出して、見事な殺陣を作り上げるんです。
図らずも黒澤明監督の『影武者』で代役をやることになり疎遠になってしまいました。・・・・・
私の女房のお葬式に勝さんが来て、久しぶりだなと抱き合ったのが彼との最後です。
歌がとてもうまくて、キャバレーなんかに飲みに行くと「俺にも歌わせろ」と言って、堂々とジャズを歌ってました。

<原節子>
キスシーンがあった。燦然と輝く大女優でしたから緊張しました。リハーサルの時、胸をドキドキさせながらキスしようとしたら、お付の方が「唇を合わせないでください」という、ところがそうすると今度は成瀬監督が「ちゃんと唇を合わせろ」って(笑)。原さんも「そうよ、堂々とやってよ」・・・OKが出た後「ちゃんとできるじゃないの」ってポーンと肩をたたかれた。という。

この頃の名優はいろんな意味でスケールの違いを感じる。時代が人をつくったのだと思う。

「切腹」に原節子の「娘・妻・母」、見てみたと思わせるエピソードだ。

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Posted by 秀木石