聖徳太子
Vol.3-3.4-780 聖徳太子
2022.03.04
昨年から今年にかけ、聖徳太子の1400年遠忌が法隆寺で営まれている。
昭和の時代、聖徳太子と言えば1万円札の代名詞で、「聖徳太子1枚で」と言えば分かりあえた、それほどに聖徳太子は私たちに近しい存在だった。
かといって聖徳太子が為し得た数多くの功績や人生を理解しているわけではない。ただ、多くの人は、よく知られている伝説的言葉と17条憲法等の一部の情報、及び、お札の肖像画が醸し出すオーラから勝手に想像し、太子の人柄を理解した気分になるほどポピュラーであることだ。
◆「一に曰く、和をもって貴しとなし、さかうることなきを宗とせよ」で始まる17条憲法。
それに隋の皇帝にあてた手紙である。
◆「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。」
という相手に対して決して服属しないよ、という決意が表明された手紙である。
聖徳太子は、推古天皇のもとで摂政として、十七条の憲法や冠位十二階の制定、遣隋使の派遣、法隆寺の建立、仏教の布教活動にとどまらず、法の整備や外交に、文化の向上など超人的な働きがベースとなり、多くの伝説が生まれた。
大きな仕事を為している時は無我夢中、軋轢もある、やり終えた後に改めてその偉大さに気づくものである。後々に語り継がれ、脚色もされ伝説が伝説として生きる。しかし、中身なくして1400年の時に耐えられるものではない。
その伝説は西暦720年に成立した『日本書紀』に記されている。
(1)その母が宮中の厩の戸にあたった時に安産で生まれた
(2)生まれながら言葉を話すことができ、聖人の智をもっていた
(3)成人後は十人の訴えを聞き分けることができた
(4)未来のことを予言できた
(5)父の用明天皇に寵愛され、幼少期は特別に上宮とよばれる宮殿に住まわされた。
そう言えば4、5年前に中学校の学習指導要領改訂案で、「聖徳太子」を「厩戸王」とする改定案の方針が出されたことがあった。
本来の名前にするのが適当だということだったと思うが、「バカじゃないの文科省」と思ったものだ。
聖徳太子という尊称は西暦751年に編纂された『懐風藻』からだとされるが、それでも1300年以上前から親しまれた尊称である。それを今、聞き慣れない「厩戸王」に変更する必要性など全くない。
文科省に何らかの別の意図があるのだろう。これほど、親しまれ、日本の歴史の初めに日本政治に偉大な足跡を残した人物である。
さらに、高額紙幣の顔として永遠に残る名前である。今さら変更してどうする。
文科省の日本の歴史への愛情の無さを改めて感じた。多くの国民の反発のお蔭で、聖徳太子表記が残されたことはよかった。
聖徳太子は、大阪府河内郡太子町磯長にて円墳の叡福寺北古墳で今も日本政治を見守っておられる。
ネットに、伊勢雅臣氏の聖徳太子の歴史講座を受けた子供たちの感想があった。
◆ 聖徳太子がいなかったら、もしかしたら今でも日本は中国の家来になってしまっていたのかなと思った。国の大きさや力はちがっても、同じ国々なのだから、対等につきあうのがよいと思った。
◆ 聖徳太子の方針はすごくいいと思った。「自分の国は自分の足で立つ!」「今までのような日本ではだめだ」。そう気づいたのだと思う。…今こうして「日本」という国が独立してやっていけるのも聖徳太子のおかげだと思った。
1400年の歴史を見渡しても、これほど国民に誇らしくかつ平らかに知られた歴史人物もいないのではないか。確かに、お札のお蔭もあろう、しかし、残した足跡は今も燦然と輝いて見える。
日本人として誇りである。
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