日本人はなぜ日本を愛せないのか-03
Vol.1-4.14-91 日本人は何故日本を愛せないのか-03
2020.04.14
「日本人はなぜ日本を愛せないのか」(著者:鈴木孝夫/新潮新書)
この本にはユーラシア大陸を含む外国の歩んだ歴史、日本が歩んだ歴史の違いが語られている。
我々が育ちが良いとか悪いとかの問題と対して変わらず、人間は環境に育てられるという言い方ができるかもしれない。
ユーラシア文明に属する国々(欧米・中国・朝鮮)は戦争・侵略をつい最近まで、いや今でもウイグル・チベット・ウクライナはその状態に近いといえるかもしれない。対して島国日本は海との断絶という幸運か、侵略の恐怖もなく1300年もの長きに亘り、穏やかな環境で生きてきたこの違いは、外国との違いを決定的に鮮明にした。
外国に恐怖・警戒心・疑いを持たない実に優しい穏やかな民族となった。
警戒心を持たない日本は何でも良いものは躊躇なく受け入れてきた。鈴木氏はこれを「部品交換型文明」と称した。その最たるものは明治維新である。国の体制を一気に欧米化しようと試みた。
「脱亜入殴」である。旧来の劣った日本のもの、中国伝来の古いもの全てを、進んだ西洋のものと取り換えた。自分たちの社会に役立つものは固有の文化や宗教伝統に反するものでもためらわずに取り入れ、古くて効率が悪いと思えば長年の風俗習慣でさえも平気で捨ててしまう。世界でも例外的な民族という。
千年以上も続いた律令国家を西洋に倣って立憲君主制に変更するなどということは、外国に征服でもされない限り世界常識であり得ず、世界に例がないという。
また外国では考えられないようなこと、明治には母国語である日本語をフランス語や英語への変更が検討されている。
欧米のように1000年以上侵略・戦争の中にあれば、外国のものを入れると言うことは相手の支配下になる意味も含んでいる。故に外国とは強い警戒心と反発心が根底にあり簡単に受け入れることは絶対やらない。
日本が一夜にして全く異質の文明に切り替えることが出来る離れ業を、多くの外国人は信じられないと口をそろえていう。
この天真爛漫というか無防備さは日本の特異なものである。
特に自国の言語はその国の誇りであり命に等しいものである。ヨーロッパには小さな国が数多くあるが、それぞの自国語があって決して捨てようとは考えない。
明治にはじまった西洋中心主義は現代にも歴然とある。日本語より外国語のほうがカッコいいと感じること自体に「日本語放棄願望」があるという。小渕恵三首相の時「英語第2公用語」論があったのもその系譜とする。
「日本語はダサい」「垢抜けしない」「野暮ったい感じがする」「夢がない」と敬遠される。サッカーのチーム名、車名も日本語の名前はない。
いかなる民族であっても、自分に固有な言語を誇りに思い、それが奪われそうになれば必死に守るというのが世界の常識です。ところが、日本は日本人自身による根強い日本語放棄論があり、意味も分からずまたその必要のないのにやたらと色々な外国語をカッコいいと使いまくる風潮があるという。
日本人は日本語に誇りを持ち愛着を感じているとは思えない。日本人は日本語を有り難い大切な宝と思うどころか、できることなら捨てたいガラクタと感じているようだと。
日本人は強力で魅力に富む新しい文明に出会うたびに、以前の古い文化を惜しげもなく捨てて、生活の向上、経済や技術の発展、国家の繁栄に役立つと考えられるものはどんなものでも、ためらうことなくことなく外国から取り入れ自己改造した。結果として、日本が現在のように世界中がうらやむ素晴らしい国、少なくとも物質的には世界最高の国なれた。という。
しかし、「部品交換型文明」にして、どうしても取り替えられないものが二つあるという。
その一つが、日本語、自分たちにぴたりと貼りついてどうしても離れない。呪いの対象として誇りも愛も感じない。隙あらば消したい、外国語に変えたい強い願望ある。
もう一つは「肉体」である。
*「このあかちゃん色白いネェ~」・・・白人優生思考
*「あなたは日本人離れしているわね」・・・いえ、私は日本人です!と言って怒る人はいない。西洋人に近い、綺麗だ、素晴らしいと意味を込めているからだ。
日本人の中に西洋基準が浸み込んでいる。
せっかくの美しい黒髪を黄色や金髪に染め、二重まぶたにする。
日本人のなかには外国をこのように過度に故なく崇めるあまり、他国に見られない優れた点の多い固有文化、風俗習慣をないがしろにし、自分の生まれた国に対して深い愛情も誇りも持たない人が増えるという好ましくない面が近年顕著だと言う。
しかし、今や日本は技術、経済の点においても世界トップクラスになった。
日本の視野から「お手本」「目標」が姿を消した。ということは日本自身が世界を指導すべき立場にたつ先進国になったと言うことだ。
そこで著者は新しい目標に目覚めればいいという。
日本人自身が価値のないものとして捨てかかっている日本人の伝統的な生き方や日本文明の様々な特徴こそ、21世紀の地球世界に大いに貢献できると言い切る。
そのために、日本を知らなければならない。
石原慎太郎氏が言っていた、電車の中での大学生の会話だ「オイ!アメリカと戦争をしたこと知ってる?」「マジか?」「で、一体どっちが勝ったの?」と聞き返したという。
12月8日な何の日か「ジョンレノンが死んだ日」でななく「大東亜戦争が始まった日」である。
<私たちは一旦立ち止まって>
トラウマのように日本人の心に巣食う戦争の時代を総括しておかないと、新しい旅立ちはできない。という。
*いったいあの戦争は何だったのか、どうして起こったのかを客観的に検討する。
*「日本は東南アジア諸国を一方的に侵略し、多大の被害を与えた」のか冷静に議論し、決着をつけておく必要がある。
*夏目漱石が留学した時代。植民地や保護領でない国がいくつあったのか。わずか6か国であった事実。
*多くの植民地がどのような状態だったのか、どのようにして独立していったのか。
上記のようなことをしっかり検証した上でなければ、自分たちの歴史をただ断罪するだけなら、考えれない程愚かなことだと言う。
植民地を持った経験のある国で、そのことに対して遺憾の意を表明したり、相手国に謝罪し賠償をし払った国は、我が日本を除いてはない。
戦後、進歩的文化人を自称する左翼がかった歴史家や知識人の間で、大東亜戦争は日本の私利私欲のみを追求した一方的な侵略戦争だった。との見方が強い。私はこのような全面否定の見方は、この戦争によって救われ独立を手にした人々のことを全く無視しているという理由で、公正な歴史判断とは言えない。
いつの時代のどの戦争でも、結局は当事者たちの私利私欲に発するものでしかなく、正義のための戦争などない。ただ、日本の「一方的な侵略で絶対的な悪だった」という言説には賛成できない。
大東亜戦争において短期間で占領した地域は、すべて欧米の植民地だった事実を忘れてはいけない。
そのような事実を踏まえ、しっかりた検証を行った上で新しく日本は世界のリーダーシップをとっていかなければならないという。
最先端の科学的常識は、人間と人間以外を区別する西欧の「断絶型の世界観」と違って、輪廻転生、共生の生物観を持っている日本の「連続型の世界観」とまったく矛盾がないと言える。したがって自然との共存共栄でなければならない。
「お蔭様」「もったいない」という日本の精神は世界が必要とするものです。
人口が増え物理的に食糧不足、温暖化による地球の変化。
日本人の「まだ使えるもの、食べられるものを捨てない」「生きとして生ける物のおかげで人間も生きてる」人も死んだら土にかえり、魂は生まれ変わって輪廻し、生き物たちも人間も、世界の循環の中で繋がっているという感覚。
日本は「地¨救¨原理」という考えで世界をリードする時が来ているという。
今までは世界の背中を追ってきた。今や日本の科学技術は世界最高水準に達している。私たちは自覚していないだけで、実は多くの点で世界をリードしている。
今、日本では猫も杓子も英語を教えようとする。そんなバカなことはしないで日本語を国連の公用語に加える運動をすべきだ。
オイルで潤ったアラブがアラビア語を公用語とすべきだとし、勝ち取ったように。日本語が世界で武器になる様に国連での公用語に日本語をする努力を惜しまないことだ。具体的には世界の各都市に「日本語学校」「日本文化会館」「日本文化センター」などを充実し、講演会、催しもの、日本語学習の援助、日本で学びたいと言う人に適切な対応等、きめ細かいフォロー体制が必要という。
世界のどこに行こうが、日本の家電製品、カメラ、テレビ、自動車があふれている。しかし、じゃあ世界は日本を知っているのかと言えば、ほとんど知らないのだ。
世界をリードしていくには英語は必要だ。しかし学校の授業での英語は役に立たない。「防人集団」というエリート集団学校で養成をして、ずば抜けた知識、ネイティブに負けない英語力等をつけさせないと世界に通用しない。
国民全部を国際化に向くように教育するなど、無駄であるだけではなく、むしろ有害無益なだけだという。
「良いもの、優れたものは外国から来る」その考えはもう終わった。
明治、大正、昭和、平成で日本のリニューアルは完成したのだ。
これからは日本の時代。
穏やかな歴史を歩み、外国から多くのことを学び取り、強靭で、柔軟で、優しくて規律正しく生きる日本人が世界をリードしていく時代だとこの本は語っている。