変質した東大の本質

Vol.3-4.14-821    変質した東大の本質

2022.04.14

ネットニュースが河瀬直美氏の東大入学式の様子を伝えている。

東大の入学式が12日、東京都千代田区の日本武道館で行われ、映画監督の河瀬直美氏が来賓として出席し「自由に生きることの苦悩と魅力を存分に楽しんでください」と祝辞を贈った。

「明日からの日々は喜ばしさにあぐらをかいてはいけません」とフランスのカンヌ国際映画祭で新人監督賞を受賞した時に贈られた言葉『今日はこのトロフィーを掲げて喜んでいれば良い。明日からは0から出発する』を引き合いに入学性を励ました。そこまではごく普通の祝辞である。

その後、突然ウクライナ戦争の話が始まった。

「ロシアという国を悪者にすることは簡単である」と切りだし「一方的な側からの意見に左右されて、本質を見誤っていないだろうか。誤解を恐れずに言うと『悪』を存在させることで、私は安心していないだろうか」と冷静に自問して問題提起した。

河瀬氏は「人間は弱い生きもの。だからこそつながりあって国家に属している。自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということ自覚する必要がある」と述べ、「自らの中に自制心を持って、拒否することを選択したい」と話した。

ジイには、河瀬氏が言わんとするところがイマイチ飲み込めない。

河瀬氏は映画監督であり脚本家である。

河瀬氏の映画を見たことはないが、代表作の「萌の朱雀」と「殯の森」にしても作品説明をみると重いテーマを描いている。人間の深層心理に迫ろうとしているような感じを持つ。彼女の職業柄、物事の本質に迫ろうとした問題提起ともとれるが、ウクライナ戦争はそんな複雑な事ではなく、ルール無視の国家暴力に対しての単純な怒りである。

東大が入学式に彼女を来賓の一人として選んだ理由は定かではないが、何かほかの意図を感じてしまう。

平成31年の東大入学式に、かの有名なフェミニスト上野千鶴子氏が呼ばれたことから類推すれば、今はやりの「多様性に拓かれた大学(上野千鶴子)」という関連かとは推測する。

上野千鶴子氏も異端であると認識されておられるのか、その時の祝辞である。
『・・・言っておきますが、東京大学は変化と多様性に拓かれた大学です。わたしのような者を採用し、この場に立たせたことがその証です・・・』という具合で、合コン、ナプキンやタンポンの話までされた。まさしく多様性の塊のような祝辞だった。

しかし、河瀬氏のいう「ロシアを悪者にした」わけではない。自ら悪者になったのだ。河瀬氏のロシアの深層心理を理解し、悩みの奥まで斟酌する前に、皆(自ら常任理事国を務める国連)で決めた「ルールや法を無視した侵略した行為」を悪行とし、その実行者を「悪者」と呼んだ。それがなぜいけないのか。

「お前は30年前、俺のいうことを聞かず、他のグループに入った。気に食わん」と言って、勝手に土足で家に入り殴りかかる男を、悪者と言って何か差支えあるというのか。

「話せばわかる」という言葉さえさえぎり暴力を振るってくる人間を容認する包容力はジイにはない。

「本質を見誤っていないだろうか」と河瀬氏は言うが、両国の長い歴史に内在する問題以前の話だ。世界は話し合う前にふるう「暴力」を非難しているだけである。

それ以外の問題はお互い言い分があるだろう。今の状態は「ルール無視の暴力」への非難である。

河瀬氏は「本質」という言葉を使ってそれこそ問題の本質をそらそうとしていないか。

「人間は弱い生きもの。だからこそつながりあって国家に属している」という。ジイはこの国に生まれこの国を愛しているからこの国に属している。特別弱いからという意識を持ったことはない。

「自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということ自覚する必要がある」と警告する。我が国の政府、国民のどこを見て侵攻の可能性ありと断定するのであろうか。彼女は『自制心をもって拒否する』とは、「戦争になっても私は反対するし、もちろん協力もしない」と言いたいのだろう。

完全に今の日本と日本人を信用していない。

現、ウクライナとは真逆である。

東大の本質である「多様性」とは実に都合のいい多様性である。お前は気に食わないから殺す。これも多様性で「悪者」にしてはいけないという理屈になる。

東大の左傾化は今に始まったことではない。日本の最高学府が一方に偏った多様性に陥っていることを思うと不安である。

ジイは日本の最高学府で、かつ日本の厳しい現況において「どこかの国が侵攻してくる不安より、自国が侵攻する不安」を発信する人間性こそ、私たちが最も警戒しなければならないのではないか。

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日本,雑記

Posted by 秀木石