沖縄復帰50年・防衛を考える

Vol.3-5.15-852   沖縄復帰50年・防衛を考える

2022.05.15

沖縄と聞いてイメージするのは、美しい海でも、首里城でもない。

米軍基地、普天間基地辺野古湾移設反対、米軍基地反対運動、反対運動による極左暴力集団の座り込み、革新系知事による政権との対立、米兵少女暴行事件、革新系2大新聞「沖縄タイムスと琉球日報」の沖縄、等々、ネガティブなイメージしか思い浮かばない。

人それぞれで、若い人はきれいな海や南国の楽しいイメージが真っ先に思い浮かぶのであろうが。

沖縄が日本に返還されて今日で50年。
昭和47年5月15日、東京・九段の日本武道館で開かれた記念式典で佐藤首相が目涙を浮かべる姿を思い出す。

その日から

1、施政権は米国から ⇒ 日本に

2、車の通行方法が右から ⇒ 左に

3、琉球政府が ⇒ 沖縄県に

4、通貨がドルから ⇒ 円に

5、法律が米国民政府優先から ⇒ 日本国憲法と国内法適用に

にその日から変わった。

具志堅用高氏が産経新聞「話の肖像画」という連載コラムでの記事が当時の沖縄と本土の温度差や、報道される県民感情の一面を捉えていて興味深い。

その一部だが

「47年5月15日午前0時、沖縄中に日本復帰を祝うサイレンが鳴り響き、港に停泊する全ての船舶は汽笛を鳴らした。

日本政府と沖縄県主催の「沖縄復帰記念式典」が東京と沖縄で同時開催された一方で、那覇市の与儀公園では沖縄県祖国復帰協議会主催の「沖縄処分抗議、佐藤内閣打倒5.15県民総決起大会」が開かれた。

具志堅は高校2年の16歳となっていたが、記念日には「なんか関係者が騒いでいたかな」という程度の感慨しか持ち合わせていない。

・・・東京に戻る船に乗り、晴海埠頭で下船時にパスポートを提示すると、「もういらないんだよ」といわれた。

2泊3日の船旅で晴海埠頭に着き、上野駅から夜行列車に乗って酒田を目指した。

山形では「日本人だと思われなかったみたいでね。今はみんな、沖縄でも内地でも同じ顔をしているけど、当時は顔は濃いし、色は黒いし、年も上に見られて年齢を疑われた。英語で話しているのか、と聞かれたこともあった」という。

現実に当時はまだ、沖縄・奄美の出身者がアパートを借りられないなどの差別があった。多くは内地の側の無知による。

この具志堅氏のコラムを記事には、具志堅氏の指摘通り本土人の沖縄に対する無知はその通りで、現在も変わりはないのではないか。

米軍基地の70%を請け負う沖縄。基地があることによって潤うこともあるだろうが、爆音に危険と隣り合わせの日常は住んだ人でないとわからない。

今日のニュースでも「平和行進」と称し、全国からおよそ1000人が参加し「本土復帰とは何だったかを問い基地のない沖縄を求める5.15平和行進」が行われた。

「米軍出て行け」「沖縄に基地はいらない」、その気持ちはわからないではない。しかし、平和行進してシュプレヒコール するだけでは問題は解決しない。そろそろ方向転換が必要ではないか。

ウクライナ戦争がいい教訓である。今こそ、米軍基地問題を真剣に考える好機だ。

米軍基地は言わずと知れた、日米安全保障条約の約束事の中での日本防衛の意味も兼ねている。具体的には現在、中国及びロシアに北朝鮮という独裁・共産党国家に隣接し、極めて紛争に巻き込まれやすい環境にあることは現実である。

台湾有事が現実問題になりつつある中、沖縄県人ならずとも日本国民全員がその恐怖を感じていることは間違いない。であれば、そのための備えを日本はどうするのか、当然考えなくてはならない。

沖縄人の「基地はいらない」気分は十分わかるが、 “ 米軍帰れ ” で基地が無くなった日本と沖縄に平和がくるのであろうか。基地が無くなり、軍隊の無い日本はどう日本を守るのか、今こそ、沖縄の負担を無くす意味でも日本全体で防衛問題を徹底的に議論をすべきである。

虹色の世界は思う描くだけではやってこない。ウクライナのように、命をかけて守り抜く決意が必要な時もある。

米軍に頼らないのであれば、独自の軍隊を持ち、それなりの軍備を備えるということである。共産党ですら「憲法9条で国は守れない」と言っているのである。今さら「平和憲法9条を守ろう!」などという子供のじみた発言はもう止しにしなくてはならない。真剣に日本の生きる道、つまり、防衛元年として国民のすべてが沖縄の基地軽減もしくは米軍基地をなくすのであれば、米軍無き後の日本を考えなくてはならない。

沖縄復帰50年、沖縄発の新しい日本の防衛元年としたい。

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Posted by 秀木石