原発・避難者訴訟

世界,日本,雑記

Vol.3-6.19-887   原発・避難者訴訟

2022.06.19

6月17日、福島第一原発事故で避難した住民らが、国に損害賠償を求めた訴訟。

最高裁は国賠償責任を認めない判決を言い渡した。

事故から11年。東電を規制する立場である国の法的責任の有無について事実上の決着がつけられた。

“ こんな判決が出るとは ” 原告の心中を端的に現した言葉である。当然ながら失望の声が聞こえる。無念であろう。

最大47万人に達した被災地からの避難者、今も3.5万人の避難者がいる。現在も7市町村、約336平方キロにわたる帰還困難区域で避難指示が残っている。

今回の裁判の争点は
1、福島第一原発を襲った巨大津波を国が予見できたか
2、予見可能であったとして、事故を回避できたか

が争われた。

最高裁は『実際の地震は想定を大きく上回るもので、東電に津波対策を命じていても浸水は防げなかったとする国側の言い分が認められ、勝訴した』

産経新聞「主張」は「そもそも、原子力発電は『国策民営』で営まれてきた大型エネルギー事業である。その原発が巨大津波で被災して放射能の広域汚染を招き、多数の人々が避難したことに思いを致したい」とし、「突出した不合理性はなかったというだけであり、全面的に是認されるわけではあるまい」とした。

そういう現実を踏まえながらも、

「資源貧国で島国の日本にとって原発は、エネルギーの安全保障上も欠くことのできない基幹エネルギー源である。・・・原発の安全にも稼働にも国の責任は大であるとの自覚をもって、国民に対して原子力発電の必要を丁寧に説明し、深める努力が必要」とした。

元東京高裁判事の升田純弁護士は
「国の責任を否定したことは結論において合理的だが、判決では国が事故を予見できたかという点については否定しておらず、今後、同種の問題が起きた際に国の責任を認める余地を残した。大規模な自然災害が増える中、国の防災対策は重要度を増している。今後は国が、すべき対策をしなかった『不作為』で責任が問われる可能性がある。時代に沿った判決だ」とし、この裁判は『国の責任を認める余地を残した判決だ』という認識を示した。

被災していない者がこの重大な裁判に口を挟むなど到底できない。

原発ができた頃は、二酸化炭素を出さず、燃料を繰り返し使える夢のエネルギーでもあった。

人間が開発したものに人間が苦しむ。何とも不都合な事実がある。ただ、忌避するだけでいいのか。最高のものには最悪のマイナス面もある。その最悪に最高で最大の注意が必要であった。その最高度?の注意をも超えたところに、人間の考えを遥かに超える力を自然は有していた。

人類史上、人間はあらゆるものに立ち向かってそれを乗り越えてきた。逃げないできたからこそ高度に発達した現在がある。それも事実ではないか。

しかし、同じ地球上に生きながら国によって考えが違う。今、地球上にある物質の中で最大のエネルギーを持つ核。最強の力を有するものには最強の牙もある、福島原発事故との遭遇は、想像を絶する力に対し、まだまだ謙虚さが足りない、もっともっと注意深くなれと教えられた。

人間は自らが開発したものに対し、もう無関心でいられるはずがない。兵器としての核は当然ながら廃絶しなければならない。だが、まだまだ開発途上の核、その核を人類の幸せのために使うという目的を遂行する過程において、避けて通れないのが事故である。人間進化のための通過儀礼のように存在する。

核は人類にとって、科学者にとって、研究対象物として人類史上最強の物質ではないか。

核こそ、イデオロギーを超え、地球上のすべての人間の共有物として、「核・世界管理機関」なる全世界唯一の管理機関をつくるべきである。

「開発・研究・エネルギー利用等々」すべて申請、承認制とする。もちろん報告・進捗状況の報告も義務化する。日本は、機関設立を先導する資格と義務がある。

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