小林秀雄の警告

日本,,雑記

Vol.3-8.14-943   小林秀雄の警告

2022.08.14

作家:適菜収氏の「小林秀雄の警告」(講談社新書)という本がある。

適菜氏の作品には、大学でニーチェを専攻したことからか『ニーチェの警告』が最初に生まれた。その後『ゲーテの警告』、『小林秀雄の警告』とシリーズ化された。

他にも “ B層 ” に焦点をあてた『B層の正体』や『B層の害毒』などの本がある。

その言葉の面白さというか、本人が醸し出す独特の雰囲気もあり “ ちょっと違う何か ” を感じたのである。

そんな興味から手にしたのが、「小林秀雄の警告」という新書である。

帯には「今こそ真の保守=小林に学べ!」とある。
適菜氏は保守系人との認識はあったが、小泉純一郎や小池百合子、安倍晋三などに対しても批判的である。帯にあるように “ 真の保守 ” とは何か?へのジイの欲求である。

小林秀雄は “ 批評家 ” である。文芸評論を主にした文筆家が文化勲章を受章するまで高みに至らしめた文芸評論だが、適菜氏が “ 真の保守 ” と言ったように、この本は小林が文芸評論を通して発した言葉から、保守の神髄に迫ったものである。

~「小林秀雄の警告」~

本書の冒頭に適菜氏は、本の目的として小林の仕事を振り返ることで、「世界」について考えることだという。また、小林の批評の対象は「ものが見えていた人」たちという表現もした。

本書に出てくる人物はベルグソン、モーツァルト、ゴッホ、ピカソ、ニーチェ、ハイデッカー、本居宣長、等々天才たちばかりである。彼らはものがよく見えていた人たちと解することができる。

<人を見る目>という章がある。

「人を顔で判断するのは大事なことです。悪そうな顔の人間は危険人物である可能性が高い。変な顔に自然に目が行くのは、危険を回避する本能です」

小林は顔にすべてが表れると考えた。
ランボーに興味をもったのも、まずはその顔だった。

モーツァルトの顔にも興味をもった。
ランゲが描いたモーツァルトの肖像画を小林は大切に所持していた。
「それは巧みな絵ではないが、美しい女の様な顔で、何か恐ろしく不幸な感情が現れている奇妙な絵であった。モーツァルトは、大きな目を一杯に見開いて、少しうつむきになっていた。人間は人前で、こんな顔ができるものではない。彼は、画家が目の前にいることなど、全く忘れてしまっているに違いない。二十瞼の大きな目は何も見えてはいない。世界はとうに消えている。ある巨きな悩みがあり、彼の心は、それで一杯になっている。眼も口も何の用もなさぬ。彼は一切を耳に賭けて待っている。耳は動物のように動いているかもしれぬ。が、頭髪に隠れて見えぬ。ト短調のシンフォニイは、時々こんな顔をしなければならない人物から生まれたものに間違いはない、僕はそう信じた。」(モーツァルト)

小林が顔に興味を持ったのは、言葉で説明できること以上の情報が詰まっているからである。

「孔子の有名なことばに “ 人いずくんぞかくさんや ” ということばがあるな。
人間はおもてにみえるとおりのものなんだっていうんだ。自分よりえらくみせようとしたって、りこうそうにみせようとしたって、あるいは、もっと深くかんがえているんだって、いくら口でいったってだめなんだ。もってるものだけ、考えているだけのものがそのままおもてに、顔つきにも文章にもあらわれるんだよ。」

それを端的なことばで、「人間は、ツラがよくならなければいかん」と言った。

<価値とは何か>
価値を判断する能力をどのように高めればいいのか?
まずは一流のものにあたることです。一流のものとは、一流の人間が一流だと判断したものです。一流の人間とは一流の人間が一流だと判断した人間のことです。
だから、その歴史に連なる努力をしなければならない。

質屋の主人が小僧の鑑賞眼教育に、先ず一流品ばかりを毎日見せることから始めるのを法とする、ということを何かで読んだが、いいものばかり見慣れていると悪いものがすぐに見える、この逆は困難だ。(作家志願者への助言)

「姿のいい人」「様子のいい人」というのは、単に姿勢が正しいとか、格好がいいという意味ではなく、その人の優しい心や、人柄も含まれている。
こうした姿を感じる能力は誰にでも備わっているが、それは養い育てようとしなければ衰弱してしまう。
近代とは人間の生の衰弱の過程である。
近代人はその歪んだ歴史観により、過去を軽視するようになった。
自分たちこそが、歴史の最先端に立っていると思い込むようになった。

<歴史は鏡>
「昔の人は、面白くない事実など、ただ事実であるという理由で、書き残してきた筈はない。あんまり面白い事があったから、語らざるを得なかったのだし、そういう話は、聞く方でも親身に聞かざるを得なかったのだ。こんな明瞭な歴史の基本の性質を失念してしまっては仕方がない。歴史を鏡という発想は、鏡の発明と共に古いでしょう。歴史を読むとは、鏡を見る事だ。鏡に映る自分自身の顔を見る事だ。勿論、自分の顔が映るとは誰もはっきり意識してはいない。だが、誰もそれを感じているのだ。感じていないで、どうして歴史に現れた他人事に、他人事とは思えぬ親しみを、面白さを感ずることができるのだ。歴史の語る他人事を我が身の事と思う事が、即ち歴史を読むということでしょう。本物の歴史家が、それを知らなかったという事はない。(交友対談)

昭和21年、戦時中の姿勢を追求された小林の発言がある。
「僕は政治的には無知な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。大事変が終わった時には、必ず若しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうといいう議論が起る。必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。悧巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」。

古典とは「最新の書」である

「古典とは、僕等にとって嘗てあった作品ではない、僕らに或る規範的な性質を提供している現に眼の前にある作品である。古典は嘗てあったがままの姿で生き長らえるのではない。日に新たな完璧性を現ずるのである。嘗てあったがままの完璧性が、世の転変をよそに独り永遠なのではない。新しく生まれ変わるのである。永年の風波に堪える堅牢な物体ではなく、汲み尽すことの出来ぬ泉だ。僕らはまさに現在の要求に従って過去の作品から汲むのであって、過去の要求に過去の作品が如何に応じたかを理解するのではない。現在の要求に従い、汲んで汲み尽せぬところに古典たらしめる絶対的な性質があるのだ。」(環境)

現代人の「さかしら」な解釈により古典を理解するのではなく、古典の「形」が見えてくるまで見たり、声が聞こえてくるまで聞くということだ。・・・小林秀雄

小林とは正反対、「知の巨人」と言われたこんな男もいる。
『古典など読む必要はない。なぜなら、最先端の知の中にすでに古典の知識は織り込まれているからだ』と言った傲慢な男もいた。

本の一部を紹介しただけで、真の保守を理解することは困難だ。行き着くところは “ 常識 ” という聞き慣れた言葉にヒントがあった。ただ、その常識の意味するところは簡単ではない。小林が古典にとことん寄り添ったように、小林の著作に触れ、言わんとするところに真剣に従ってみるしかない。

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