めぐみちゃんのいない45回目の誕生日

日本,雑記

Vol.3-10.5-995   めぐみちゃんのいない45回目の誕生日

2022.10.05

今日は、横田めぐみちゃん58歳の誕生日である。

その内、45回はめぐみちゃんがいない寂しい誕生日であった。生きているのに取り戻せない苦しみ、身を切り刻まれるような苦しみの45年でもあった。

北朝鮮に拉致されたのが、中学1年、部活動を終えて帰宅する 途中だった。

あの日「息を殺して食べた夕食」、あれから45年が経過したのだ。
最後までめぐみちゃんの帰りだけを “ 生きる力 ” にした父・滋さんは2年前にこの世を去った。無念であったであろうことは察するにあまりある。

拉致被害者の家族の方々は日々の生活のすべてが北朝鮮との闘いの日々、いつ取り戻せるのか、毎日の暮らしが救出の願と共にあった。心から笑える日などなかったことは想像に難くない。

北朝鮮という悪霊の塊のような国家が相手である。自らの手でどうにもならないもどかしい日々でもあった。

出来る事と言えば、
<政府へのお願い> <国民の関心が薄れないようにと街頭での署名活動に各地での講演><国際的枠組みを使った圧力~米朝首脳会談など>できる限りをつくした。

それでも、動かない北朝鮮の拉致問題。本来なら諦めに近い絶望に近い心境になるところだ。

しかし、被害者のご家族の情熱は親から子に引き継がれ、その情熱は醒めるどころか今も、強いメッセージを社会に送り続けている。被害者家族同士の強い連帯が力になっている。

2002年の小泉首相訪朝から20年が経った。

タラップから降り立つ拉致被害者の感動の帰国は今も鮮明に目に焼き付いている。今、明かされる様々な事実を思い返す時、あの時こうであれば、こうすれば、あるいはこんな対応をとっていれば、などなど救出への思いが募るばかりである。

あの時には優先課題でなかった「拉致問題解決」が、安倍政権の時には国政の優先課題になり、日朝国交正常化の条件と位置付けられた。

さらには前述のごとく国際的枠組みにも組み入れられ、米朝首脳会談時に大統領から直接拉致問題が取り上げられた。

しかし未だ、解決の目途がつかないまま、北朝鮮は度重なるミサイル実験を繰り返すばかりだ。

かつて福沢諭吉は国家として大切なことを「教育、新聞、軍事」を上げた。もし我が国に国を守れるだけの軍事力があればと思うことしきりである。ここでも戦後レジームの悪弊が解決を遅らせた。

返す返すも残念なのは、麗澤大学客員教授の西岡力氏の話を借りれば、小泉訪朝時に拉致被害者救出を最優先とし、核問題で米国と事前調整ができていればと悔やまれる。

当時の外務省アジア太平洋州局長・田中均氏は拉致被害者救出よりも国交正常化を優先していたと書いている。北朝鮮はその空気を読んだのか、「拉致したのは13人だけ、8人死亡、5人生存」で幕引きを図ろうとした。あまりにも残酷な知らせに、横田滋氏は怒りと共に号泣するしかなかった。

後に送られてきた骨は鑑定の結果、全く別人のものであった。その卑劣さは人間業ではない。人を人と思わない人間だからこそできる拉致。国家犯罪も平気で出来たのである。悪の枢軸と名指しされたがそのものである。

そんな中、一度だけ嬉しい出来事があった。結婚されていためぐみさんのお子さん、孫に会えるというサプライズである。モンゴルでの面会で嬉しそうにお孫さんを抱く早紀江さん。そのお孫さんも35歳になる。

時は無慈悲のごとく過ぎ去るばかりだ。

「めぐみちゃんが小学生のときは誕生日に友達が家に来て、ちらしずしやケーキを食べたりしていましたが、13歳のときのめぐみちゃんの姿しか思い出せません」早紀江さんの言葉である。

早紀江さんの中には “ 13歳のめぐみちゃん ” その姿のままで止まっている。
真っ白になった髪は、過ぎ去った苦労の日々を偲ばせる。

お元気なうちに一目会わせてあげたい。全国民の願である。

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Posted by 秀木石