やはり神は存在した

スポーツ,日本,雑記

Vol.3-12.5-1056    やはり神は存在した

2022.12.05

この世に神は存在する。

紙一重、奇跡、偶然、神がかり等々、思いもよらないことが時として起ることがある。

カタール・ワールドカップで三苫選手の左足がゴールラインぎりぎりでボールを捕らえ切り返した、それを見事に田中選手が押し込んだ。まさに奇跡的ゴールだが、その瞬間に相撲で言えば、“ 物言い ” がついた。

2分半を要したビデオ判定の結果「イン」とコールされ、日本列島は歓喜に揺れた。

「産経抄」がこの奇跡を語っていた。

「W杯カタール大会で日本の金星をもたらしたのは、最新技術による嘘のない写真だった。三苫選手の伸ばした足がゴールライン上のボールを蹴る瞬間の、あの写真である。

1次リーグで強豪ドイツに続きスペインを破った美技は、選手たちの鍛錬の精華に他ならない。それでも、神がかった何かを感じるのは小欄だけではあるまい。科学の目が行き届く競技場に神様の潜む余地はないはずが、あの写真が捉えたのはボールとゴールラインの、一点で接する円と線の巧みな造形美だった。見えざる手の動きを、思わざるを得ないのである。

写真は日本の決勝点に曇りのないことを証明しても、あの瞬間、あの場所で三苫選手が足を伸ばした理由は教えてくれない。気迫、執念、意地、言葉を並べるほどに、日本を導く力が神秘へと傾いていくようにも見える。神様はどこかに身を潜め、いたずらの機会を狙っているー。」

世の中には、奇跡のようなことがよく起る。まさにゴールラインの上から見れば、0.00?1ミリかもしれない。カメラの角度によっても違う。

メディアは「この判定に放送では唖然とした様子だった」と、試合を中継していた米放送局『FOX Soccer』の解説陣が騒然となっていたことを伝えた。判定については賛否両論ある。そのへんを考えてFIFAは正式に「インであった」と声明を出した。

三苫選手の執念だろう。ひとまずよかった。

奇跡や偶然がそうそう起ることはないが、
「自分が思ったことが、ことごとく実現していく」とか、
「末期の胃がんと診断されたが、高齢のため手術もせず放っておいたら自然治癒した」とか、
世間にはいろいろな話がある。しかし、それは偶然という類のものも多くある。そうではなく、何かを成そうとして懸命に努力する、努力、努力、努力の連続の日々、来る日も来る日もただ実現のために頭はいっぱいの研究者もいる。そういう日々の中にこそ、思いもよらないひらめきや偶然見た自然現象にヒントを嗅ぎ取る。その執念のような日々に奇跡や、偶然を引き寄せる何かがあるのだ。日々の鍛錬もそうだが、成したいという “ 思いの強さ ” こそ、奇跡を呼び込む源泉であることは間違いない。

間違った実験から奇跡的発見もすべて努力と強い思いがなせる業だ。

「人は懸命に働いているだけで、誰かを幸せにする」という格言ではないが何かの本で読んだことがある。無心な姿にこそ神は宿るのではないか。

どの分野においても達人たちは「好きだから」という。この「好き」という感情こそ無心になれる最大の要素だ。時間を忘れ、苦労を苦労とも思わない。その幸せな世界は、そのものと一心同体、身体の一部になった理想形である。

好きだから、懸命になれる。好きでない仕事も、懸命にやれば好きになっていくこともある。どちらが先でもいい、好きになったら勝ちである。

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