“ 子どもの声がうるさい ”

日本,雑記

Vol.3-12.15-1066  “ 子どもの声がうるさい

2022.12.15

子どもの声がうるさい

「子供の声をうるさい」と感じる人と、「元気で良いなあ」と感じる人の違いは大きい。

ちょっと前になるが、ある閑静な住宅街に保育園ができたが、地域住民から「うるさい」と言われて廃園に追い込まれたことがあった。個人の権利が重視される時代の象徴のような事件だ。

子供の声がしない街なんて、さびれた町のイメージしか浮かばないが、ジイなどは、子供の声がして若者の声がして、大人の声が聞こえる街こそ健全な街だと思うのだが。

ところで今回、長野市で、『子どもの声がうるさい』というたった1軒の住民からの苦情を受けて、市が公園を廃止するというニュースがあった。

この件で、長野県出身の作家でジャーナリストの青沼 陽一郎氏がこの事件の経緯と、ご自分の感想を述べておられた。

「この報道に最初に接した時に、『いかにも長野らしい話だ』と思わずにはいられなかった。そこには私情もある。というのも、私自身、長野市で生まれ育っているからだ。

まず、話を整理する。20233月で廃止が決まったのは、長野市にある「青木島遊園地」。 この公園は、地域住民からの要望を受けて、2004年に畑だった民有地を市が借り受けて整備したもの。ところが、開設当初から1軒の住民が苦情を寄せていた。周辺には、学童保育施設「児童センター」のほか、小学校や保育園もあって、日中は保育園児が、夕方は小学生たちが多数訪れて遊んでいたという。

事前に公園設置の説明を受けていなかったというこの住民からは、「4050人の子どもが一斉に遊んでいて、うるさい」「ボールが庭に飛び込み、取りに来た子どもに植え込みが踏み荒らされる」などの苦情が相次ぐ。

市は公園の出入り口や遊具の場所を変えたり、消灯時間を早めたり、ボール遊びを禁止して対策を講じたものの、昨年3月、住民から児童センターに「子どもは5人程度に。声を出さず静かに遊ばせてほしい」と要望があった。これを受けて公園を維持、管理していた同センターでは、子どもを遊ばせることもできなくなり、地元の区長会が今年1月に廃止要望書を市に提出していた」

・・・・以上がことの経緯のようだ。

その要望通りに廃止になったということだ。

苦情を出した本人は本当に満足なのであろうか。

青沼氏曰く、私が「いかにも──」と感じたのは、たった1軒の苦情で公園を廃止するという結末ではなく、たった1軒でも開設以来18年間も我慢して苦情を訴え続けた、その気質だ。といい県民性のイメージを「教育県」「理屈っぽい」「まじめ」「頭が硬い」「頑固で融通が利かない」などを上げていた。

過去にはソープランドへの反対運動を展開。休業に追いやったという過去の事例も紹介している。

あるいは、オウム真理教と、徹底抗戦し追い出したこともあったという。

その挙げ句、教団施設で生成したサリンを撒かれたのが松本サリン事件につながった。意地でもめげない徹底した住民運動が、結果的に事件を惹起したことを、長野の「らしさ」を示すひとつのエピソードとして紹介している。

青沼氏は、「社会全体での子育ての必要性が問われる時代に、子どもたちの遊び場を奪うような苦情は住民エゴに等しいという意見も少なくないようだが、だとしても、苦情を訴えた住民が間違ったことしているとも言い切れない」と肯定的な理解である。

青沼氏の言うように、「事前の説明も承諾もないまま」というのは確かに問題である。公園にもいろいろ目的がある。散策用の日本庭園もあれば、一般的な公園なら子どもたちが大挙してやってくるのは想定内の公園もあろう。

子どもが自宅の敷地内にボールを取りに侵入して、植え込みを踏み荒らすのは器物損壊だと騒ぐ前に、やさしく諭すか、市と対応を考えることができたであろうと思うが。

本人は「公園を閉鎖しろ」などとこの住民は言っていない。もとのような静かな住環境を求めていただけだ。と言っても「もとのような静かな住環境」とはどの程度のものか要求の内容がわからないので何とも言えないが、観光用の庭園でもあるまいし、元のようにはなりようがない。市側とどの程度で折り合いをつけるかである。

青沼氏の「むしろ、県民性の象徴のように、たった1軒でも18年間を耐えながら改善を訴え続けた。そのたった1軒の意思を尊重して、地区住民や市も合理的な判断に踏み切った。そうした対応こそ評価する声がもっと上がってもいい。まして、子どもの声は騒音にもなる時代だ。首都圏では保育園の新設に反対運動が起きることだって、珍しくはない」

どうもこの、「県民性」だとか、「子どもの声が騒音になる」という時代の肯定には違和感を覚える。

対象がオウムやソープランドならともかく、未成熟な子供である。それも意図して何かを企んでいる人間ではない。はちきれんばかりのエネルギーを友達と発散している大事な成長期である。行き過ぎた暴走には注意が必要だが、温かく見守る余裕のなくなった社会こそ問題である。

青沼氏は都心で区が管理する公園のすぐ近くに仕事場の拠点とし、交通の利便性もよく、昼間は静かで過ごしやすい環境で仕事をしておられるようだ。

その青沼氏も「この公園でいきなりイベントを開催することがあって、歌ったり、踊ったりすると、その音が反響して仕事にならない」とおっしゃる。

「やめろ、とは言わないが、せめてイベントの事前予告くらいはチラシでポスト投函して欲しいものだ」とおっしゃるが、その通りで、要望するならその程度が常識の範囲内であろう。 

昔は学校が夏休みになると毎朝、この公園で子どもたちのラジオ体操が行われていた。みんな参加の判子をもらいに来て喜んでいた。それがある時、朝からうるさい、眠れない、という飲食店の店主たちから苦情が入って、それからなくなってしまったという。除夜の鐘がうるさいというのもその類だ。

情緒や風情、風物詩なる言葉は死語になってしまった感があり寂しい限りだ。

青沼氏は
「子どもたちのためなら何をしても許される」
「声の大きい者には黙って従え」
「たった1軒なのだから文句を言わずに我慢しろ」というのは乱暴な話だし、たった1人でも声をあげることは大切なことだ。
は、おっしゃる通りだが、お互いに常識なるものをわきまえなければならない。

子供は宝だが、未成熟なのだ。そこは、大人が子どもたちに厳しく教えなければならない。我が子のような愛情をもって、ということだが、核家族化し地域で子供を見守るという昭和の時代とは違う。なかなか難しい時代ではあるが、来年から「こども家庭庁」が動き出す。どんな施策が出て来るのか興味はあるが、こんな「庁」をつくらないと子供と家庭を守れなくなってしまったことがちょっと悲しい。

“ この里に 手毬つきつつ 子どもらと 遊ぶ春日は 暮れずともよし ”

良寛さまがこの世にいたら何とアドバイスをくれるであろうか。

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Posted by 秀木石