旧統一教会 見落とされた問題
Vol.3-12.26-1077 旧統一教会 見落とされた問題
2022.12.26
弁護士で元東京地検特捜部検事・髙井康行氏が、今回の統一教会問題と被害者救済法の成立に至る問題についていろんな角度から問題提起した寄稿文が産経新聞にあった。
ジジイのような法律の素人からすると見落としがちな点を分かりやすく指摘され、なるほどなと何度も肯いてしまった。内容の一部を紹介したい。
◆ 旧統一教会問題を受け、いわゆる被害者救済法が成立した。
実質審議はわずか5日間であった。救済法は、信教の自由と公共の福祉の調和点を探し出すという現行法憲法の根幹部分に触れる難しい問題を含んでおり、本来であれば熟議が必要であった。
◆ 信徒が己が信じる教団に寄付する自由、教団が信徒から寄付を募る自由は、憲法が保障する信教の自由の一環である。ただ、いくら寄付を募る自由が認められているとしても、社会秩序に抵触する方法で寄付を募ることが許されるものではない。今回の救済法は、社会秩序に抵触する寄付勧誘行為を具体的に列挙してこれを禁止しようとするもので、結果的には妥当なものになったと思う。しかし、ここに至る社会的雰そ囲気あるいは風潮には自由主義社会とは相容れないものを感じざるを得ない。
◆ その社会が自由であるかどうかは、その社会が少数者あるいは異端の存在を認めているかどうかで決まる。かつてナチス・ドイツや旧ソ連など全体主義国家は、国家が定めた「絶対善」の下に個人を服従させ、批判を認めず、行動を統制した。その結果、自由は消え失せた。
◆ 全体主義者は為政者によってもたらされるだけでなく、民衆によってももたらされる。安倍晋三元総理が銃撃されてからしばらくの間、一部野党やマスコミは一斉に旧統一教会と議員、特に自民党議員との接触の有無を追求し、わずかでも接点があれば激しく非難し追求した。その姿勢は、まるで合法的な宗教法人である旧統一教会及びその信徒の存在を絶対悪と決めつけているかのようであった。その風潮は、我々の社会における「自由」が脆弱な面を持つことを露わにした。
◆ 今回、いわゆる「宗教2世」と言われる人たちからもいろいろ問題が提起され、救済が求められている。・・・
ただ、親の行為によって子が経済的に困窮する場合があることは、親が信仰に基づいて多額な寄付をする場合に限られるわけではない。親が遊興にふけって多額な散在をする場合にも同じ問題が生じる。
◆ 親が子に自分の信仰を伝えようとすることは親の信教の自由に属し、これを受け入れるか拒否するかは子の信教の自由に属する。これは、親子間の価値観の相克の問題であり、それは親が特定の信仰を持っている時に限られるものではない。「宗教2世」が提起している問題は、信仰者の親子間だけではなく、世の親子間に共通する問題である。
◆ 旧統一教会の場合は、親がマインドコントロールを受けた結果であるから、他の例とは同列に論じられないとする意見がある。しかし、仮に、親にそのような違いがあるとしても、それによって子が置かれる環境や悩みに差が生じるものではない。それにもかかわらず、仮に、政治が、いわゆる「宗教2世」の支援や救済に特化した施策を講じるとしたら、それは法の下の平等に反するだけでなく、政教分離原則にも反するというべきだろう。
◆ 政教分離原則は、政治に宗教的中立を求めているが、宗教的中立は、政治がすべての宗教や信仰者を公平平等に扱うことのほかに、宗教と非宗教、信仰者と非信仰者とも公平平等に扱うことを意味しているからである。
◆ 支援策、救済策は、「宗教2世」であるかどうかは関係なく、親に起因する精神的あるいは経済的苦境の中で孤立している子を、広く支援、救済するという観点から考えられるべきである。
以上のような論旨であるが、髙井氏はこの問題は、家庭、あるいは親子関係に、政治や社会あるいは法がどこまで介入すべきかという観点からも議論されるべきものであろう。との見解を示しておられる。
今回の統一教会問題は、自民党議員が多くからんでいるということで、野党がここぞとばかり政局の材料とした。その果てに野党に追い立られるように『宗教2世』の救済法の成立をさせた。
髙井氏の指摘通り、信教の自由と公共の福祉、親に起因する精神的、経済的苦境の中で孤立している子供の問題を深く議論するには5日間では足るはずもない。
野党の頭にあるのはその先にある「票」に結びつくかが問題であって、社会の根幹を追求していく意図はない。与党の大半も大差ないだろう。政治とはそんなものと諦めるしかない。
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