書家・金澤翔子
Vol.3-12.29-1080 書家・金澤翔子
2022.12.29
観念的な思いがなく、何の欲望もなく、ただみんなに喜んでもらいたいという一念で書く。そういう思いのなかで書くので失敗しない。翔子が書く書には私もとうていかなわないです。
そうおっしゃるのは翔子さんの母親であり、書家である金澤泰子さんである。
ご存知のように、書家・金澤翔子さんはダウン症の書家である。
年末になるとジイはスーパーで年賀状印刷のチラシをもらってくる。もう翔子さんの年賀状は定番になっている。他の書家のもあるが、ジイは翔子さんの字が一番好きだ。
月刊誌・正論の50周年に「正論」を揮毫した縁で正論1月号に翔子さんの母親で書家の金澤泰子さんの寄稿文が掲載されていた。
書家であるお母さんが、ダウン症の翔子さんに「書」を書かせようとしたのは5歳の時である。
生まれた時、ダウン症と告げられた日から苦しみが始まった。「奇跡で治してほしい」と祈り続ける日々。死んだらどんなに楽だろうと振り向くと、にっこりほほ笑む翔子さんがいる。その笑顔の可愛さに救われ生きる力をもらうという日常であった。
苦しいときはお地蔵様に祈れと言われて翔子さんを背負ってい地蔵様巡りにでる。お地蔵様に向かって唱えたのが般若心経である。毎日毎日何十回と唱え、翔子さんは背中でそれを聞いていたという。
何度も何度も唱えている「色即是空空即是色」とか、「空」であるとか「無」であることが無意識にだんだんとわかってくる、変わっていく自分を実感したという。そういう意味でお地蔵様は私たちを救ってくれたのかもしれないと、述懐されている。
「ダウン症でも大丈夫じゃないか。日々接するうちに翔子の良いところが見えてきたんです。二歳くらいの時に、私がおろおろしていると、手を伸ばして「大丈夫」というかのようにやってくるんです。人の心を読むのが上手な子なんです。奇跡は起こらなくても、この子はダウン症でも大丈夫と思うようになりました。」
「五歳になったら十歳まで生かせてくださいと祈りました。十歳になったら二十歳になるまで生かせてくださいと、いろんなところで祈っていました。死のうと思うほどつらい子育てでしたが、いまでは感謝の祈りになっています」
成長するにつけ、周囲の友だちと一緒に育ってほしいとの希望が「受け入れは難しい」と言われ、夢を失い引きこもり状態になったという。
その時に、「時間はいっぱいあると気持ちを切り替えた」のが良かったのだ。「そこで翔子と書に没頭しました」と、般若心経を、一筆一筆時間をかけ毎日毎日書かせる日々が始まった。
日々自分が書の先生であり教える身だ、ところが翔子さんにはどうしても厳しくなる。
「翔子は決して嫌とは言わない子です。けれど、母親が怒っているのは悲しい。紙にぽとぽとと涙を落としながら、般若心経を書きました。それで書き終ると『ありがとうございます』って言うんです。四千字ぐらい書きました。」
とおっしゃる。四千字である。一筆一筆時間をかけてと言うことは、ダウン症の翔子さんのことだ、真剣に向き合いお母さんの言う通り、一心不乱に半紙に向かう姿が目に浮かぶようだ。1分間に4文字が精いっぱいである。18時間はかかる。厳しい修行僧の行にも劣らない書への向き合い方である。小学4年生である。涙がぽたぽたと落ちるのを想像するだけで目頭が熱くなる。
お母さんは「教えるというよりも二人の作業でしたね。持続力もつきましたし、親子の心が深く結びつきました。教えるともなくやっていたことで、楷書の基礎ができたと思います。今、何がでてきても書けるのは、苦しいなかでの作業があったからです。そうでなければ書家にはなれていなかったです」。とおっしゃるがその通りだろう。何年続いたから記されていないが、少なくとも4、5年は続いたのではなかろうか。
翔子さんが14歳の時にお父様が52歳急逝された。20歳で個展を開くまで6年である。生前お父様が「翔子は字がうまいよ」とすでにその才能を見抜いておられた。そのことが、母泰子さんが翔子さんに書を教えようと思われたきっかけになったことは疑いない。
翔子さんが20歳で東京・銀座で個展を開くと決断したのも、お父様の「翔子が20歳になったら個展を開こう」とおっしゃっていたのを母泰子さんが思い出しての決断だった。
「平成17年に銀座書廊で個展を開きました。私たち書家の憧れの画廊です。さらに、帝国ホテルで記念レセプションも開催しました。豪華な図録も作りました。私が亡くなったら翔子には身寄りがない。この写真集を持って施設に行きなさいという思いで作ったのです」
ジイもこの個展の大反響で翔子さんを知った。
字体も好きだ。ダウン症特有の表情もそうだが、すべてにおいて企みと言うものが全くない。泰子さんがおっしゃる通り、何の欲望もなく、ただ喜んでもらいたい一念で書く字に、多くの人の涙を誘う。
何のてらいもなく「お母さまが好きだからお母さまのところに生まれてきたの」という。常人が言えないようなことを素直に言葉に出す。書にも同じなのだろうと思う。
最初で最後だからと、精一杯盛大にやろうと決めた。
ところが、その反響はすさまじく次から次へと個展の申し出がくる。幼い頃から般若心経に親しんだことから翔子さんが書く字は仏典の中から選ばられることが多い。それもよかったような気がする。
神社仏閣のご縁は70カ所以上にのぼる。錚々たる神社である。
出雲法隆寺大社、厳島神社、東大寺、薬師寺、春日大社、薬師寺、延暦寺、伊勢神宮、増上寺、中尊寺等々。これらを聞いただけでも自分のことのように嬉しい。
お母さんはこうおっしゃる
「翔子は月のような存在だと思います。太陽のように自分から輝くことはできない。地元商店街のみなさんに支えられ、見てくださるみなさんい褒めてもらったりした、照らされて光っている。翔子は商店街で買い物をするのが好きです。そういうお店の方々が翔子を見守ってくださり助けてくれます。だから障害のある翔子の一人暮らしが成り立っています。」
そうはいうものの心配はつきない。
「孤独な時、般若心経を一心不乱に二人で書いた時の気持ちを忘れずに元気にくらしていってほしい。それだけを願っています。」と結ばれている。
素晴らしいではないか、「何があってもこの商店街が翔子さんを支えていただける。」頼んだわけではないが、言わず語らずの内に商店街に全幅の信頼が置かれている。
それも翔子さんが醸し出すすべてが、まるで生きながらにして “ お地蔵さんのような光 ” を放っているからではなかろうか。
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