LGBTの動きに見る日本分断の深層

世界,日本,,雑記

Vol.4-10.3-1140    LGBTの動きに見る日本分断の深層

2023-10-03

LGBTという言葉に最近やっと聞き慣れた感がする。そのLGBTだが、改めて説明することもないがL(レズビアン・女性同性愛者)、G(ゲイ・男性同性愛者)、B(バイセクシュアル・両性愛者)、T(トランスジェンダー・アイデンティティ・性自認・性同一性)という。

LGBまでは昔から何となく理解し、ちょっとかわってるなという程度の認識だった。ところが欧米の先進的な考えが浸透するにつれ、それほど多くないと思われるLGBTと言われる人の社会的地位が一気にクローズアップされる現象が起きている。その中でも特に複雑な問題を内包しているのが “ T ” トランスジェンダーといわれる人への対応だ。

平成16年には、トランスジェンダーの方の強い要望により戸籍も変えることができる「性同一障害特例法」が成立、施行されている。

人は生まれた時、生物学的に『男』又は『女』と判定される。成長と共に性別とは異なる性の自己意識が芽生え、自らの身体的性別に違和感を覚える状態が『性同一障害』だ。

昔は女っぽいとか男っぽいで済まされてきたが、ジェンダーフリーという言葉をよく聞くようになった30年ほど前から性の多様性が徐々に浸透し、昨今はLGBT思想が急激に拡大、進歩的な欧米思想かぶれではないかと思えるほど行政の前のめりには驚くばかりだ。

埼玉県などは、埼玉県議会令和4年6月定例会において「埼玉県性の多様性を尊重した社会づくり条例」が成立し、令和4年7月8日から施行された。

国会では性的マイノリティーに対する理解を広めるための「LGBT理解増進法」が2023年6月16日に成立し、23日に施行された。

10月2日の産経新聞「自民党は保守か」のなかで、高市早苗経済安保担当相は
「保守の定義は難しいが、悠久の歴史に培われた日本人の国民性や文化、技術、国土を大切に守り、ご先祖さまがつないだ命の連続性の重さを心にとどめ、先人に感謝しながら、次の世代にもっと良い日本を残していくー。こうしたことを大事に思っている。

子どもの頃、親からは自律と勤勉の倫理をたたきこまれてきた世代だ。人さまには迷惑はかけない。額に汗して働く。職業に貴賤はないー。いまも多くの人に引き継がれている価値で、海外に出たら日本人のすごさを実感するところでもある。」と語っている。

一見LGBTとは関係ない話のように聞こえるが、『悠久の歴史に培われた日本人の国民性や文化に・・・引き継がれている価値』には、男女の区別なく平等に受け入れてきた歴史があり、今日のLGBTのような方への差別などなかったということを暗示している。

歌舞伎は女形を男が演じる。女性の匂いすらする女形の玉三郎の人気は絶大である。宝塚もしかり、歌舞伎とは逆に、女が男を演じる日本独自の感性で魅了する。日本ならではのジェンダーフリーだ。テレビ界でも例を挙げれば枚挙にいとまがない。国民自身が一番よく知っている事実だ。

したがって敢えてLGBTと銘打った拙速すぎる動きには違和感を感じざるを得ない。ましてや法律にするという動きには一部の左翼系野党がLGBTに力を入れているように、背後にはある政治的目的を持った強い意志を感じる。

心配するのは、LGBTの異常なスピードに国民の意識がついていっていないことだ。事実、LGBT思想を基に行政主導で誰でも入れるトイレなどを造ったのはいいが、市民の苦情で結局男女別のトイレに戻すという無駄な動きが目立つ。一部の強引な推進派が、動きを一気に加速しようとしたのであろう。

世間は左に傾いていると言っても過言ではない。NHKを始めとするテレビ局、新聞等を含めたマスメディアはすべてとは言わないがほとんどが左に傾いている。

世間の動きに追随するように、LGBTはいつの間にか法廷闘争の常連になりそうである。

先日、女性と自認するトランスジェンダー(男)が司法に持ち込んだトイレ訴訟。
2023.7.11、最高裁は、トランスジェンダーの経済産業省職員(男性)が申し出た、勤務フロアから2階以上離れた女性トイレを使用するという制限の撤廃要求に応じなかった人事院の判定を、違法としたのだ。

政治学者・岩田温氏はコラム記事でこの問題に触れている。
「最高裁で驚くべき意見が表明された。経済産業省で、生物学的には男性で妻子もある人物がトランスジェンダーであると主張し、女性用トイレの利用を求めていた裁判を巡り、最高裁がこの人物の意見を首肯すべきであるとの判決を示したのである。生物としては男性でも自分が女性だと認識すれば女性用トイレに入ることを認めるなら、トイレを男女に分けている意味は何なのだろう。

・・・判決文の中で最高裁判事たちの叙述した補足意見はさらに驚愕すべき内容だった。ある判事の補足意見では次のように述べられている。『自認する性別に即して社会生活を送ることは、誰にとっても重要な利益であり、取り分けトランスジェンダーである者にとっては切実な利益である』・・・平たく言えば『自分は女である』と主張すれば、社会もその主張を受け入れるべきだというのである。・・・

異様な論理の背後には、往々にして異様な理論が存在する。今回の件で分析するならば、その背後にあるのは現代フェミニズムを代表する米国の理論家、ジュディス・バトラー氏の理論である。
彼女の著者『ジェンダー・トラブル』を紐解けば、男、女が存在すること自体を否定している。

・・・バトラー氏はジェンダーフリーを飛び越え、さらに一歩進んで、人間を生物学的にみて男女に分ける性差自体も、社会的に作られた偏見だと考える。つまりジェンダーのみならず、生物学的性を区別すること自体を否定し、生物学的な男、女の存在を区別するなというのである。

生物学的な性にとらわれること自体を否定するなと言われてもピンとこないが、まさに驚愕の理論である。日本は、ジェンダー・フリーの時もそうだったが日本の歴史・文化に価値感に思いを馳せず、欧米の先進的理論にやみくもに崇拝することである。

さらに今、また最高裁で性同一性障害特例法の「手術要件」が憲法に違反するかどうかについて争われている。

現状『性同一性障害』を訴える人が自分は『女になりたい』と思った時、どうすれば “ 女 ” になれるのか ? の問いに対し、平成16年に施行された「性同一性障害特例法」がある。

そこには戸籍上の性別を変更する条件として、「性同一性障害特例法」の5要件をクリアしなければならない。とある。

特例法5要件とは?

2人以上の医師が性同一性障害と診断していることがまず条件としてある。
その上で、
①18歳以上
②現在結婚していない
③未成年の子がいない
④生殖腺(卵巣や精巣)がない、またはその機能を永続的に欠いている
⑤変更する性別の性器に似た外観を備えている
という要件をすべて満たしていれば、家裁が性別変更の申し立てを認める。

どうしても女に、男になりたい人はこの条件をクリアするために手術を受ければ望みを遂げられるのである。

今、争われているのはこの「手術の強要は憲法違反」だから、撤廃せよ。というのである。
「LGBT法連合会」は「性同一性障害特例法特例法(特例法)」の5要件は憲法違反とし「人権侵害の懸念が極めて強い手術要件を中心に、撤廃すべきである」と訴えているのである。

これには大きな問題がある。

10月2日産経新聞の「美しき勁き国へ」というコラムに、自ら性同一性障害者で性転換手術を受け、戸籍上も男性から女性になった美山氏の体験談と共に彼女の意見が記されていた。

「美山氏は性同一性障害という自らのアイデンティティーと、手術というエビデンスによって社会との協調を図っていく立場から、特例法の廃止にも反対する。『性別適合手術と特例法の手術要件は私たちが望んで勝ち取った権利であり、決して人権侵害や過酷な断種手術ではない』と断言する。

『社会のさまざまな場面に性別による区別』が存在するからこそ、社会的に見て、『性別を安定させ、社会に適合しようとする人』に法的な保護を与えているのが特例法の趣旨であり、これは差別ではないとの見解も示した。

美山氏は『手術要件が違憲となれば、男性器のある女性が女性スペースに入ることが可能になったり、出産する男性が出てきたりして社会が混乱する』として、違憲判断をしないよう最高裁に求めた」とある。

美山氏のように手術を受け、戸籍の性別を変更した人が約20年間で1万人以上いて、制度として定着もしているという現状も記されている。

さて、彼女たちが体を張って勝ち取った「性同一性障害特例法特例法(特例法)」を最高裁が違憲と判断したらどうなるか。

① 私は「T(トランスジェンダー)です」、と宣言した男性が銭湯にきてチン??をぶら下げて女湯に堂々と入ってくる
② 女性トイレには髭を生やした自称「T」が頻繁に利用する光景が出現する
③ あるいは「男」になったはずの「T」が出産するという現象も出てくる

一般女性が抱く恐怖を社会はどう守るのだろう。世の中は無法社会と化し、まさにバトラー氏の世界になる。

「T」を先行して実施した諸外国の実態は犯罪の多発で見直しが進められているという。この現状を考慮もせず、『トランスジェンダーの切実な利益』だけを優先し、大多数の女性の不安を無視するわけにはいかないだろう。

最高裁はこの年末までに判決を出すというが、左傾色が強い法曹界は果たして日本の悠久の歴史、価値観に根付いた判決を出せるか、この先の日本を決定づける判決であることを心していただきたい。

ここで場違いかと思われる記事を紹介したい。

麗澤大学准教授・ジェイソン・モーガン氏が
“「あいまいな日本」の呪縛を解こう ” と題したコラム記事である。(産経新聞2023.9.18)
その一部である。

「終戦から78年がたったが、広島、長崎への原爆投下や終戦の日をめぐるメディアの報道が具体性に欠けた気がする。

1945年8月6日に、米軍B-29爆撃機『エノラ・ゲイ』から広島市の中心地にある太田川を渡るTの字の形をする相生橋の上に、『リトルボーイ』という渾名のを持つ原爆が投下された。
・・・

原爆投下の前に米軍は、日本各地の都市を焼夷弾などで空襲した。原爆投下や大空襲などの結果として70万人以上の日本人の非戦闘員が亡くなった。先の大戦で日本列島で誰が、誰を殺したのか、はっきりしているのだ。

しかし、今年8月、以上のような史実がどこかへと吹っ飛ばされたような気がしてならない。日本の新聞やテレビなどを見ると、いったい誰が大空襲、原爆投下をやったのか、霧に包まれた謎のように言葉を濁される。広島や長崎で、たまたま天から降りた原爆が『平和』に対して攻撃したと言うかのような番組もあった。

連合国軍総司令部(GHQ)による占領についてもその中身はあいまいだ。占領軍が日本国民に対して情報戦を繰り広げ、日本人を洗脳した結果、大戦で命を落とされた英霊を忘れるように日本国民が誘導された。

主なメディアは米国の罪と日本人の苦しみをぼやかしているとしか言いようがない。誰が日本人の頭の上に鉄の雹の嵐のように爆弾を落としたか、誰が『無条件降伏』という政策を推したのか、誰が戦後日本人を洗脳したのか、誰が戦後憲法で日本を永遠に弱体化したのか、口にチャックして沈黙を保つ戦後の日本のメディアは、あいまいすぎるのだ。
・・・・・
(ノーベル賞作家・大江健三郎の「あいまいな日本の私」、川端康成の「美しい日本の私」を引き合いに出し)

私は川端のその講演の中で登場する曹洞宗の開祖、道元禅師の名詩がヒントだと思う。

『春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり』

は密教的な意味に満ちていると大江は指摘する。だが、道元は、物事を直接に指して、花、ほととぎすなど名前をはっきりという。飾らず、まわりくどくなく、あいまいにせず、真実をはっきりと口にすることが、道元が、あいまいな日本の私たちに教えてくれている教訓だと思う」

というものだ。

言われれば、広島平和公園の原爆碑の石碑に書かれた、『安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから』もあいまいである。ジェイソン氏が指摘したように、終戦間近の無差別本土攻撃、戦後の洗脳の実態、東京裁判とはどんな裁判だったのか、GHQに強制された憲法の成立過程、学校教育における強制の実態、ラジオを通して行われた洗脳の実態にプレスコード等々。指摘の通り、私たち日本人はこれらを徹底して検証もせず「あいまいのまま」戦後78年を過ごしてきた。

プレスコードなどを解き明かした「閉された言語空間」(江藤淳:文春文庫)、「世界がさばく東京裁判」(佐藤和男:明成者)、「パール判事の東京裁判日本無罪論」(田中正明:小学館文庫)などの書籍があるが一般図書である。日本政府が主体となり、断ち切られた歴史、文化を修正するための公的文献が作成され、正式に中学、高校など教育現場で教えられることはなかった。すなわち日本が歴史に正直に向き合わずに “ あいまい ” にしてきた結果が、アメリカ製憲法を未だ改憲できない、堕落日本の現実がある。

日本の歴史と、日本ならではの価値観に自信が持てず、欧米を中心とした外来ものを崇拝するくせが抜けきらない。本来の日本を知り尽くしていればLGBTに惑わされることはなかった。

2004年、アフリカ人女性として最初にノーベル平和賞を受賞したケニア共和国の副環境相ワンガリ・マータイさんが、環境問題解決のキーワードとして日本の “ MOTTAINAI ” の精神を提唱した。自信を無くした日本人が気付かない日本の潜在的価値を見出してくれた。

これも、戦後の洗脳によって悪者にされ、東京裁判で無実の罪を着せられ、自らの責任として贖罪意識に我が身を置いた結果、自信や誇りを忘れた日本の姿を物語っている。

マータイさんに褒められて、恥ずかしそうにそういうものかと喜ぶ日本人の姿は一見謙虚である。

話を戻すが、Jモーガン氏の指摘されたように、現在の出来事のすべては、戦後の日本を徹底して分析し清算をしなかったために、本来の日本をとり戻すチャンスを逃したのである。“ あいまいなままの日本 ” を現在もなお引きづっている。日本独自の考えで動けずダメな日本のまま欧米信仰から抜け出せないのだ。

世界がうらやむ万世一系の支柱をいただきながらその意味の重さも知ろうとしない。世界最古の源氏物語という文学から始まり、和歌、短歌に俳句、茶の世界に能、狂言に歌舞伎、数えきれないほどある多様な文化。ゴッホが憧れた浮世絵もそうだ。今の若者はその輝かしく、誇り或る文化を先生から朗々と聞くことはなかったであろう。

国旗・国歌は軍国主義の象徴というレッテルを貼り、教育勅語は国粋主義として悪者扱い。ある意味可哀そうな若者たちだ。終戦後の大人たちの無責任の結果である。

昭和20年8月に断ち切られた日本の歴史は分断のまま現在に至る。“ああ、、悲し”と嘆いてばかりもいられない。

岩田温氏ではないが、たとえ最高裁判事の考えであろうとも、奇妙な理論、奇々怪々な論理にはしっかりと否と叫ばなくてはならない。

年内に判決が出るという「性同一性障害特例法」の裁判決してバトラーに洗脳されず、日本人の心を感じさせる判決を祈りたい。

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