スクラップの記憶
Vol.1-7.15-183 スクラップの記憶
2020.07.15
何気なく見ていたTVに青島健太氏がコメンテーターとして出ていた。
話を聞きながら徐々に鮮明になったのが、30年以上前のことだ。
ジイは少々感激し、その記事をスクラップした記憶が蘇った。
まさか、コメンテーターとして再会するとは夢にも思わなかった。
その記事である。
『青島は今主将だ。主将として青島が自分の胸にいいきかせ「いつでも、どこでも、精神的、肉体的に部員の誰よりも元気に」球場でも学校でも合宿でも、青島は競馬の先行馬のように突っ走っているのだ。
だから練習が終わり、風呂に入り、腹いっぱい飯を食うと、あとは寝る以外に残っていない。それでも青島は自分をはげまし、叱りとばして東京・自由が丘まで目黒区立11中の男子2年生に、英語と数学を教えに行く。それもこれも年間消耗する用具代16万1千円の助けになればという気持ちからだ。
東京六大学野球史上、最高打率3割7分9厘を残した男は契約金6千万で阪神入りした。彼は学生時代、学費、合宿費のほか小遣い6万円の仕送りを受けていた。
それをどうのこうのいっているのではない。ただ、青島のように、練習でくたくたになっても、親の負担を軽くするために月額2万円稼ぎに、歯を食いしばって出かけて行く方が、ずっと学生らしい話ではないか。・・・』
という記事であった。その彼も紆余曲折はあったが、野球選手も経験し良き人生をおくる一人である。
このスクラップだが、どんな動機でスクラップし出したか記憶がない。
昭和52年(1977)頃から主に新聞の切り抜きや気になった雑誌の記事、写真、絵、などを切り抜いている。
当初は何も考えずにいたのだろう、具体的な日付が付されてないのが残念だ。
日時というのは実に大事だ。
日付は多くのことを物語る。
3.11というだけで東日本大震災とわかる
8.15は終戦、天皇陛下の玉音放送を思い出す。
9.11と言えばアメリカ同時多発テロ事件だ
10.14はわが友・長嶋茂雄の「永久に不滅です」の名文句を残した現役引退試合だ。
というように日付だけで多くの物語が走馬灯のように蘇ってくる。
種類は一般(13)と音楽(4)、東日本大震災(全7)、ICHIRO(7)がある。
どのスクラップも何かに役立てようというようなものではない。当時、多少なり発熱した情熱の証として振り返る程度のものでしかない。写真のアルバムのようなものである。
今はほとんどスクラップすることはない。NO13以降ほとんど増えない。
トシと共に感受性が衰えたのかもしれない。
その初めてスクラップした切り抜きだが、日付がない。
新聞か雑誌か不明だ、小さな絵の切り抜きと、「谷川俊太郎」の詩、それに雑誌から切り抜いた「キャベッジ・グループ」の詩の切り抜きである。
もう40年以上前のことだ、ちょっと乙女チックな詩だ。
<手紙・・・>
うまくいえません
たくさんいえそうにありません
わかっていただけないかもしれません
きっとあなたを有頂天にさせることはできないと思います。
きっとあなたを不思議な気持ちにさせることはできないと思います。
僕のとりえといえばたったひとつ
あなたを大切にすることだけ
うまくいえませんが
あなたを大切に生きていきたいと思います
●作/キャベッジ・グループ●・・・とある。
キャベッジ・グループは、永田明正のポエム・ネームとある。
1961年、創刊間もない小雑誌「COOK」の第1ページを飾る巻頭詩の作者名として初名乗りをしたのが始まり、以来18年間連載。とあった。何から切り抜いたのか記憶にないが、不思議な詩のニュアンスに感じ入ったのだと思う。
そんなのがあると思えば、手で無造作にきりとった何かの一部であろう
「・・・青春に蹉跌はつきものであり、自分の思い通りにいかぬのが世の中である。しかし、その与えられた条件、与えられた状況のもとで自己を燃焼させてこそ、初めて道が開かれるのである。一つの挫折を身の不運とあきらめるのか、あるいは与えられた試練と受け止めるのか、それによって人生は灰色にもバラ色にもなろうというものだ。・・・」
こんな言葉で、己を叱咤激励したのかもしれない。
これは1980(s55)年の切り抜きだ。
・・・現世的なこれら大学生のほかにも海外で汗を流している若者がいる。なかでも、将来の地位や出世などには目もくれず、貧しい発展途上国の民衆の中にとび込んでいく「青年海外協力隊」の行動はすばらしい。
たった2年間の奉仕生活だが、彼らは、大公使館員や商社員では得られない何者かを持って帰ってくる。彼らがからだで学んだもの、それは日本にとっての貴重な財産でもある。
土木工事の指導のためアフリカのガーナに行った上野勝美さんはこう書いている。
「現地にいると、日本のセブンスターやビール、ちゃんこ鍋がたまらなくなつかしくなる。そう思いながら、自分が情けなくなる。前向きのように装ってはいても、顔は日本を向いている。タバコがなくても、何がなくても、断水でシャワーも浴びず、臭い服を着ていても、“どうせ730日(2年間)ですむことだ。俺には日本がある”と開き直れる。つまり傍観者にすぎない」と。
ガーナの生活は厳しい。が俺には(日本という)飛べる所が残されている。ガーナ人にはここしかない。ここしかないが、彼らは決して悲観的でもないし、深刻でもない。俺は飛べる所があるくせに、彼らよりも多く不満を言うし、数多く腹も立てる・・・・・」
日経新聞1面下のコラム記事「春秋」だった。
時が経って読み返してみても決して無駄ではなかった。
若いとき感じたことは何年経っても同じように共感できることに驚く。
成長してないとも考えられるが、人間の本質はとても大きなショックでもない限り、変わり得ないということだろう。
しかし、大江健三郎氏の切り抜きがあった。
今もそうだが、我が身の未熟を感じる。