ヒョー・ショー・ジョウ!
Vol.1-7.19-187 ヒョー・ショー・ジョウ!
2020.07.19
大相撲7月場所が今日から始まる。
コロナ禍の中、満員御礼の垂れ幕、観客と力士が一体になった盛り上がりは期待できない。しかし、久しぶりに日本人横綱が期待できそうな「大関・朝乃山」には大きな注目があつまるだろう。
本来なら人気の「遠藤」と大相撲を日本に取り戻してほしいが、遠藤も良いところまで行って失速する。う~ん、当面は朝乃山に期待するしかないか。
ところで、ジイは大相撲になると思い出すのが、当時パンアメリカンの航空顧問だったデイビット・ジョーンズ氏だ。
ジイの年代なら誰でも知るあの大声で「ヒョー・ショー・ジョウ!」と読み上げる千秋楽の表彰状授与だ。千秋楽の名物として観客から愛された。
その、デビッド・ジョーンズ氏、ここは「ウィキペディア」を借りることにしよう。
<デビッド・ジョーンズ>
デビッド・ジョーンズ(David Mifka Jones, 1915年 – 2005年2月2日)は、パンアメリカン航空元極東地区広報担当支配人。日本では、大相撲の幕内最高優勝力士表彰の際の活躍で広く知られた。
大正4年(1915)軍人の父が駐留していたフィリピンで生まれ、サンフランシスコで育つ。カリフォルニア大学卒業後は、教師やサンフランシスコ・クロニクル紙の記者などの職を経た。
昭和30年(1955)ジョーンズはパンナムに入社し、同年10月に極東地域広報担当支配人として来日した。能や歌舞伎、雅楽といった日本の文化はジョーンズに強い印象を与えたが、中でもジョーンズが関心を持ったのは昭和31年(1956)1月場所で観戦した相撲であった。
パンナムは昭和28年(1953)5月場所から幕内最高優勝力士に対して「パンアメリカン航空賞」を出す形で相撲と関わりを持っており、ジョーンズを観戦に連れて行った人物が表彰式での賞授与を担当していた。しかしこの前任者がパンナムを辞めて転職することになり、パンナム本社はこれを機に賞の中止を決めた。
ジョーンズは中止に反対し、本社は最終的には賞の存続を認めたものの、存続を主張したジョーンズ自身が賞の授与を引き継がなければならなくなった。
<ここからジョーンズ劇場が始まったのだ>
こうして昭和36年(1961)5月場所から、ジョーンズが賞の贈呈を担当することになった。
この場所で優勝した佐田の山に対する賞の授与に臨んだジョーンズは、観客が式に退屈している様子を見てとると、あえて大声で「ヒョー・ショー・ジョウ!」と読み上げ、注目を浴びた。
翌場所からは和装で登場、呼出の助けを借りず一人でトロフィーを持つなど式への取り組みは本格化した。東京場所では読み間違えたり、噛んだりして、大阪や名古屋、福岡で開催される場所では、現地の方言で表彰状を朗読した。
ジョーンズの賞贈呈は千秋楽の注目行事となり、ジョーンズが土俵に上がると、外国人独特の抑揚を交えた表彰状の朗読を聞こうと、観客は静まりかえった。
身長163cmと、アメリカ人としては小柄な体格のジョーンズが、42kgにもなる巨大なトロフィーを抱え上げると、観客からは「よいしょっ!」と声援が飛んだ。関心の高さに、特定企業の宣伝にならないよう原則企業名を出すことは控えていたNHKの中継放送でも、ジョーンズの登場場面は特別扱いで取り上げるようになり、パンナムの知名度も高まった。
現在でも、YouTubeで検索すれば、表彰状授与シーンがいくつか散見できる。
ジョーンズの功績は相撲にとどまらなかった。能や歌舞伎、雅楽など日本の古典芸能の海外公演を実現し、東京オリンピック誘致活動にも貢献した。
ジョーンズがTBSと共同で企画した紀行番組『兼高かおる世界の旅』は、パンナムの支店網を利用して集めた世界の最新情報を盛り込んだ内容で、日本人の海外旅行が一般的ではなかった時代に海外事情を紹介する役割を果たした。
パンナムが協賛の形で参加したテレビ番組、映画は数多く、そうした作品の一つである映画『アルプスの若大将』では、パンナムのクルーを務めた星由里子演ずる岸澄子の上司役としてジョーンズも出演したほか、劇中のテレビ番組でも「ヒョー・ショー・ジョウ!」のシーンが収められている。
パンナム退職後もジョーンズの表彰式出席は続き、昭和47年(1972)7月場所でアメリカ出身の高見山が優勝した際には、役員会が開かれていたフランクフルトから会議を中座して日本に戻り、千秋楽前日から推移を見守った。表彰式ではインガーソル駐日大使がニクソン大統領からの祝電を読み上げ、ジョーンズも高見山に「ヘイ、ジェシー」と呼びかけるなど、異例の進行となった。
昭和48年(1973)1月場所、琴櫻の表彰の際には、トロフィーを落としてしまい、本人も転倒した。この事件は笑いを取るためにわざと転倒したのではないかという噂も流れたが、ジョーンズはトロフィーの突起部が突き刺さりでもすればただでは済まない、として噂を否定している。
昭和49年(1974)1月、パンナムを退職し、海外企業の日本での代理業務を行う会社で常務職に就いたが、パンナムにも顧問の立場で残り、賞授与は続いた。
1981年にはジョーンズの表彰式出席は20年目を迎えた。この年、兼高かおる、藤島泰輔らが世話人となり、ジョーンズを表彰する会が催され、400人が集まった。
しかしパンナムの業績は悪化の一途をたどり、昭和60年(1985)には太平洋路線をユナイテッド航空に売却、日本から撤退することが決まった。ジョーンズは賞も中断するものと考えていたが、昭和60年(1985)11月、ジョーンズが園遊会に招かれた際に昭和天皇が賞に言及、この発言も一因となり、賞は継続されることになった。
数度の中断の危機を乗り越えながら続けられてきた千秋楽の表彰であったが、ジョーンズも初土俵から30年が経過すると体力の限界を感じるようになり、平成3年(1991)、ジョーンズは引退の意向を相撲協会に伝えた。
引退表明後、大阪で開催された3月場所では表彰状朗読後「みなさん、おおきに、さいなら」と方言で挨拶、最後の贈呈となった5月場所でも、旭富士への表彰の後、土俵上から観衆に別れを告げた。
6月には「ねぎらう会」が開かれ、二子山理事長からジョーンズに純金製の感謝状が贈られた。また11月には伝統文化の振興と海外交流に貢献したとして、勲四等旭日小綬章が授与された。
同年12月4日にパンナムは破産した。この日の『筑紫哲也NEWS23』でこのニュースを報じた際に本当に最後の「ヒョー・ショー・ジョウ!」を披露。その表彰状の相手は長年勤務したパンナムだった。
引退後も日本に住み続ける意向を示していたジョーンズであったが、平成4年(1992)3月に脳梗塞で倒れ、アメリカに帰国した。平成17年(2005)2月2日、心不全のためネブラスカ州オマハで死去した。89歳であった。
日本と大相撲をこよなく愛してくれたジョーンズ氏、日本人の優しさ、気配り、勤勉、誠実を愛した。
当たり前のようなことだが、日本が愛される理由であることを日本人は決して忘れてはならない。
I love David M Jones heartily.