体育とスポーツ

日本 雑記

Vol.1-10.17-277    体育とスポーツ
2020.10.17

10月10日は「体育の日」だと思っていたが、今年から「スポーツの日」に変わったという。施教授の論説で改めて知った。

施光恒・九州大学教授が産経新聞に『現代に抜け落ちる日本的な見方』という論説には全く同感した。

施教授はまず最初にこの名称変更に違和感を覚えたという。
いわく『祝日とは、国民が皆で顕彰したり、次世代に引き継いでいったりしたいと願う価値や出来事を表現するものだ。言葉やそれが表す文化・伝統に現代の日本人は無頓着すぎるように感じる。』

その上で、『「体育」といった場合、柔道や剣道、相撲、弓道といった武道も含まれる。だが、「スポーツ」だと武道が含まれるかどうかは怪しい。武道にはスポーツの要素もあるが、それだけではない。武道は身体を鍛え、ワザを磨くことを通じて精神や人格を高めることを重視する。

「スポーツ」という言葉を」用いた場合、この部分が失われてしまう。確かに「スポーツマンシップ」のように、「スポーツ」にも人格陶冶の狙いがいくぶんかはあると解釈できるかもしれない。しかし「スポーツ」は純然たる競技、あるいは娯楽といった意味合いが強く、精神や人格の修養といった要素は、完全に脱落しないとしても後退におおきく退く。』

施教授の指摘はその通りであると思う。
「文武両道」の背景には、身体を鍛え、ワザを磨く過程にある精神修養や人格形成がある。机に向かって達成できないものである。

日本社会の伝統は、行儀作法や、礼儀作法、立ち振る舞いの美しさを強調する日本文化の基盤にあるのも、身体的動作の鍛錬や洗練が、精神修養に結びつくという同様の考え方だとも指摘した。

施教授はこの変更の根底にある『日本の見方に自信をもち、海外に伝えようという意欲が全く感じられない点』に危機感を示した。

この変更を主導したのが「スポーツ議員連盟」だ。彼らが持ち出した変更理由は「世界各国と協調していく観点」から考えて望ましい。という誠に浅薄なもの。他国にあわせることしか頭になく日本の伝統など何も考えない。

悲しいかな日本の国会議員からなる「スポーツ議員連盟」なるもの。森喜朗を会長としたオリンピックの推進委員とほぼ同じメンバーだ。
麻生太郎、森喜朗、河村建夫、萩生田光一、遠藤利明、馳浩、衛藤征四郎、青柳陽一郎等々、皆カエルを踏みつぶしたような顔ぶれだ。
オリンピック大丈夫かとさえ思ってしまう。

このジジイたちが日本の伝統をないがしろにする日本。もう若者にいうべき言葉もない。悲しいの一言だ。

日本的なものはいずれ姿を消してしまうかもしれない。そう思うともうこの世から去ってしまいたくなる。

くそジジイ達に腹が立つ。  どうして日本が愛せない。

どうしてもっと日本と言う国を理解しようとしないのか。どうして日本に生まれたことに自信が持てないのか。誠実、勤勉、謙虚、匠、武士道、俳句、和歌、歌舞伎、能、狂言、武道、茶道、古典、わび・さびにある日本独特の情緒、行儀、礼儀を重んじる文化、上げればきりがないほど数々の芸術、伝統に彩られた“ 日出ずる国 ”である。

自分が生まれた国をもっともっと知って、素晴らしい日本をもっと見直して、日本を思いっきり抱きしめて生きようとしないのか。

思い出すのが、杉本鉞子:著「武士の娘」(ちくま文庫)である。

この本に武士道の世界を垣間見る。
男子不在の家に見知らぬ男が大事を伝え迎えにくる場面がある。
見知らぬ男を信じてついて行って大丈夫か。そこで、

「御身は武士か」と問う。
その男は重々しい態度で刀の柄に手を置いて答えた。
「仰せの通り武士でござる」

その言葉に安心して同行するのである。
武士であれば女には手をかけまいとの安心感を得る場面である。

杉本鉞子は新潟長岡藩の家老の家に生まれ、武士の娘として、厳しい躾と教養を身につける。結婚により、アメリカに住むようになるが、目新しい暮らしの中でも身につけたものを決して失うことがなかったという。そして、ニューヨークで雑誌に「武士の娘」を連載、7ヶ国語に訳され好評を博した。とある。

例えば武士なるものの世界観がどうであったか。そのことさえ知らずに他国に迎合する。
「スポーツ議員連盟」のアホどもにはこの本を是非読ませたいものだ。