作文集・沖縄の子ら
Vol.1-11.24-315 作文集『沖縄の子ら』
2020.11.24
初めて知った、沖縄と日本の過去の一面だ。
産経新聞の論説だった。
沖縄返還6年前、昭和41年に日本教職員組合と沖縄教職員会の共同編集で刊行された、沖縄の子供たちの作文集である。
中学3年生男子の「祖国の友だちへ」とした巻頭文。
『本土のみなさん。同胞の住んでいる沖縄をご存知ですか。・・・私たちの住んでいるこの沖縄は、太平洋戦争で祖国日本のために多くの犠牲を払いました。祖国防衛のために、日本民族を守るため、母国をみじめな姿にさせないために、私たちの先輩たちは、尊い命を国家に捧げたのです。』
そんな書き出しではじまり、悲惨、怒り、悲しみをつづり、最後に
『本土のみなさん、私たちは永遠に訴え続けます。一日も早く祖国に帰れる日が来るのを』と結ばれている。
祖国復帰はこの文集が書かれた6年後である。
さらに論説には
この子供たちの文集が、日教組と沖縄教職員組合であることを伝えている。
現在の認識で言えば、保守系団体でなく革新系組織で企画されたのが驚きである。
『日の丸、それはわが国のしるしです。シンボルです。わか日本国民には、日の丸という、りっぱな国旗があります。旗の中心の赤い丸は、角がなく、平和の象徴だといわれています』(中1男子)
『日のまるの はたが、ゆっくり あがりました。それをみて、ぼくの そばに いたどこかの おばあさんが、なきそうな かおに なりました。 ほかの 人たちも みんな めを ぱっちり あけて、日のまるの はたを じいっと みて、とても しずかに なりました』(中1男子)
子どもたちが書いた文集の一部であるが、目頭が熱くなる。
沖縄では、国旗が完全に自由に上げられるようになるのは戦後25年も経ってからである。
その間、沖縄の教員たちは本土から日の丸をかき集め、広く配布して「日本人たれ」「祖国を忘れるな」とその意義を教えたと言う。
作文集のエピローグを書いた中一の女の子である。
『私は日本の子だ。立派な日本の子なのだ。』国旗を門前に高くかかげ、堂々と、そうさけびたい。・・・と結んでいる。
現在の沖縄はこの子供たちの思いとは正反対の現実がある。
こんな素晴らしい沖縄の子供たちを変えてしまったのはいったい何であろうか。
論説委員は、本土の保守陣営にあると断言する。
沖縄が47年に返還された時、広大な米軍基地は残されたままとなった。
返還と同時に基地はなくなるものと思っていた県民が深く失望したのはいうまでもない。現実は戦争状態にある朝鮮、隣国中国にロシア、極東情勢は決して安定した世界ではなかった。かつ、日本には日本を守る軍隊すらない。
日本の防衛を考えた時、現時点でアメリカの軍事力に頼らざるを得ないというのが、政府の考えである。ではどうするのか、東アジア全体を見渡した時、地政学的及び、現実にある防衛設備を考えれば沖縄に当面基地を置かざるを得なかった。
であれば、子供たちが作文で書いたような思いをくみとり、政府は沖縄の同胞に心底寄り添い、懇切丁寧に現状を説明し、本土の人々と一緒になって本気で沖縄に寄り添うべきだったのだ。
その努力なく、今の沖縄の反政府的動きを批判することはできまい。
論説委員はそこを鋭く指摘した。
ジイもなるほどと納得した。
その間隙をぬって、革新陣営は沖縄に深く入り込んでいった。
沖縄タイムスも琉球新報も反日新聞である。
子供たちが愛した日本の日の丸国旗、今の子供たちはどう思っているのであろうか。
当時の純真な子供たちと、日本復帰に期待し、戦後27年、やっとの思いで本土復帰、名実ともに日本になったのに、その沖縄の辛かった27年をもっと政府及び本土の人間は分かち合うべきだった。
ジイも確か本土復帰ニュースをテレビで見ていが、車の走行がある日を境に、右から左に代わる。大変だなあ~と思った程度だったような気がする。
沖縄の苦しみを切実に考えたことはなかった。己の勉強不足と言われればその通りだ。政府がもっと国民にかつ、全国の市町村に決め細かく沖縄の27年を同胞の苦しみとして語り、国民に徹底すべきだったのではないか。
佐藤総理のノーベル平和賞なんてどうでもいいことだ。
それよりも、その子供たちの作文集を「沖縄返還の記念図書」として全家庭に配布するような熱い思いが何故なかったのか、残念でならない。
ジイは早速「沖縄の子ら」を発注した。すでに新刊はない。昭和41年(1966年) (パピルス双書)とあった。