日常にある生と死

日本,雑記

Vol.1-12.15-336   日常にある生と死
2020.12.15

神奈川県座間市のアパートで男女9人が殺害されたのが平成29年だ。

今日、判決が出る。

検察の主張
白石被告の供述は一貫性があり、十分信用できる。被害者は失神するまで抵抗を続けており、殺害の承諾はなかった。2ヶ月の短期間に9人もの若者が命を奪われた事案で、死刑に処すべきだ。

弁護士の主張
被害者は殺害を承諾しており、現金や所持品は被告に委ねていた。抵抗したのではなく、首を絞められた際の身体的反応だった。承諾殺人罪などにとどまり、死刑は選択できない。

被害者の承諾があったかどうかが問われた裁判だ。

白石被告は判決を前に、「懲役でも死刑でもいいです」と言っている。

逮捕された時の悔しさを吐露したが、被害者への思いを聞かれても表情ひとつ変えることはなかった。

「会って間もなく殺したので思うところはなかった」
「直接の面識がないので何とも思わない」

一部の被害者には謝罪したものの、何故、全員に謝罪しないのかと問われ
「ここまで来たら演技をしても減刑は狙えない。極刑になったら演技する意味がない」といい、
事件の2か月間を
「自分の快楽を追い求めた生活だった」と述懐し
「裁判が早く終わり、平穏な生活が送れるのなら懲役でも死刑でもいい」と言い放った。

9人も殺しておいて「平穏な生活?」とはよく言えたものだ。

“ 死刑でもいい ” とはどういう言いぐさだ。殺人鬼などこの世に放つ法はない。

弁護士はどこまでも「承諾殺人罪の成立を主張」しているが、本人が「被害者の承諾はなく、全員が抵抗した」と供述しているのに、どうしても承諾殺人に持ち込もうとする弁護士とはいかなる存在なのか。

確かに弁護士とは、被告の弁護をするのは当たり前のことだが、被告本人が罪を認め早期結審を望んでいるにも拘わらず、強硬するのが弁護士の役割なのだろうか。時に疑問を持つ。

本人に情状酌量の余地があるなら別である。遺族を前にして表情ひとつ変えず、淡々と話す姿には、9人も殺した人間とは思えない落ち着きである。
3年を経過した裁判、懺悔の気持ちがわくどころか、早く終わらせて楽になりたいと言う身勝手さだ。

その3年、例え死刑になろうと、弁護士は被告が人間として改悛させ、せめて人間らしい姿を世間に見せる努力という仕事はないのであろうか。ただ減刑をのみ追及する仕事とすれば何という空しい仕事であろうか。

冤罪を疑われる事件ならともかく、疑いようのない猟奇的殺人であって、弁護と言うよりも、人間性を少しでも取り戻してあげることが弁護士の仕事としてあるのではないか。

世の中には、殺したくなるほど憎いやつと言うのは山ほどいるであろう。そんな相手をやむを得ず殺してしまったと言うなら情状酌量の余地はある。

しかし、常人には考えられないような人間がいるものだ。9人もの人間を次々と殺める人間の心層を解明するのは不可能ではないか。

一方、犠牲になった方、漠然とした死への願望の中で無防備に近い心象風景が浮かぶ。まるで引き寄せられるように軽い気持ちで近づいて行ったのだろう。そこには生に対する希薄さが死を招く導火線になったことは否めない。

人間誰しも時に「死にたい」と軽口をたたくことがある。
しかし、無我夢中で生きていれば必ず誰かのためになっていることを忘れてはいけない。

脳腫瘍で徐々に体が衰える中、見舞いにきた父が、我が子が病院の手すりにつかまり懸命に歩こうとする姿を遠目に見て、感動で動けず立ち尽くす。
若い女性が、わき目も振らず、懸命に駅の公衆トイレを清掃している姿にさえ目頭を熱くする中年男性もいるのだ。

人は懸命に生きているだけで、誰かを元気づけ、誰かを励ましていることがあるのは事実だ。

人は生ある限り生きなければならない。
しかし、心が乾いてきたら、暖かなシャワーと暖かな毛布にくるまれる場所と、人に頼る弱い人間らしさも必要なのだろう。

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Posted by 秀木石