愛するという力の凄さ

日本,雑記

Vol.2-2.2 385    愛するという力の凄さ
2021.2.2

新聞に掲載された読者エッセーである。

<大阪市 上田操さんのエッセー>

『6年前、72歳の母がくも膜下出血で倒れ、寝たきりになりました。

 食べることも話すことも、自力で動くこともできない母には人の手が必要と思い、可能な限り会いにいき、リハビリを少しでも続けてあげたくて転院を繰り返しました。

 コロナが拡大する前にたどり着いたのは、私たちが育った町の駅のすぐ近くの病院。転院して間もなく面会禁止となり、何もできない母が病院で嫌われていないか不安になり、私は週3回その病院の清掃の仕事に就くことにしました。

今まで知らなかった朝の病院、働く皆さんは人の嫌がる仕事も明るくテキパキとこなし、母にも声を掛け、優しく接してくださっていたこと、湯船に浸からせてもらっていたことを知り、感謝でいっぱいになりました。

 昨年10月、母はこの世を去りました。死の間際に絞り出すように「アー・アー」と訴えていたのは「ありがとう」と心の底から伝えたかったのだと確信しています。

 それからも、清掃の仕事を続けています。山登りのような達成感が得られ、階段を登る足も軽くなりました。

 ある日、母がいた病室の窓から電車が見えることに気が付きました。母は懐かしい電車の音、踏切の音をここで聞いていたのかもしれません。
 朝日が部屋いっぱいに差し込み、また病院の慌ただしい1日が始まっていきました。』

ジイはこのエッセーを読んで操さんの愛情の深さに思いを馳せた。

コロナで会えなくなってからの操さんの行動がすごい。

何もできないお母さんが迷惑をかけ、嫌われていないか?
普通に、家族が心配する悩みである。操さんは迷いなく週3回、病院の清掃の仕事についてお母さんの様子を見ようとする。そうできる環境であったのかもしれないが、その行動力である。

病院を疑うのではない。身内だからできた “ あうんの呼吸は ” どんなに病院のスタッフが頑張ってもすべて完璧にという訳にはいかない。

その様子が思ってた以上の優しい対応に安心をされたのだが、万が一悲しむべき状態であったとしても決して病院やお母さんが困惑するような対応はとられなかったであろうと確信する。

それは、操さんのお母さんに対する愛情の深さからそう思える。

お母さんが死の間際に渾身の力を込め、絞り出すように「アー・アー」と言葉にならない意味不明の言葉を確信をもって「ありがとう」と解する絆の深さ。

普通なら「うんうん」と返すのが精いっぱいである。最後は操さんの元での看病は叶わなかったが、わずかに残された力をすべて「ありがとう」に託されたと思うと、幸せなお二人の関係が目に浮かんで、他人ながら嬉しくなる。

お母さんが亡くなられてからも清掃の仕事を続けておられるという、何という誠実な人柄であろう。

『ある日、母がいた病室の窓から電車が見えることに気が付きました。母は懐かしい電車の音、踏切の音をここで聞いていたのかもしれません。』

こう綴った、操さん。何気ないことにはっと気づく在りし日の病室の母の姿。愛情のなせる業である。

飛躍して申し訳ないが、歴史を振り返る風景に似ている。
愛情をもってその時代に身も心を置いたとき、はっと気づくことがあるのだろうと思った。

例えば、明治、大正、昭和、戦争の時代があった。日清、日露、大東亜戦争と苦難の歴史を我が民族は生き抜いて今がある。

その歴史を語るに、私たちは出来る限りの力を振り絞ってその時代の背景や、その時代に生きた人々の心情を汲み取る努力をしなければ、その時代の人は浮かばれない。少なくとも「戦争=悪」に凝り固まった頭からは歴史の真実は浮かび上がらない。

本居宣長は古事記伝を35年かけて完成させている。まさしく身を賭して古事記の解釈に生涯を捧げた人物だ。古事記の書かれた時代に真剣な眼差しを向け35年、限りない大和の国への愛情である。

操さんがお母さんの病室で電車の音と踏切の音を聴いた時、ふっとお母さんに同化した一瞬は感動的である。

ほんの少し前であっても過ぎ去ったものは歴史である。
ものごとを語る時、そのものへの愛情があるなしで、天と地ほど違った景色が浮かび上がる。。

特に、伝記、歴史書、人物評、ジイはいつも語り手、書き手に注意する。

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Posted by 秀木石