涼しい風だね
Vol.2-2.17- 400 涼しい風だね
2021.2.17
昭和18年8月、作家・島崎藤村は大磯の自宅で71歳の生涯を閉じた。
昭和18年と言えば、大相撲は双葉山、野球は巨人・青田の時代。それよりも大東亜戦争真っただ中である。
藤村は連載原稿「東方の門」の執筆中脳溢血を発症、茶の間から見える庭に目をやって『涼しい風だね』と一言つぶやいてこん睡状態に陥りこの世に別れを告げた。
この当時の作家も芸術家も戦争もあり、決して裕福な生活を送れる状態でなかったことは推測できるが、それにしても悲惨かつ波乱な人生を歩んでいる。藤村も例外ではなかった。
今、雑誌に掲載されている、作家・西村眞氏の「日本人、最期のことば」の連載を読んでいる。
島崎藤村は明治5年2月、馬籠宿で庄屋を兼ねる旧家に生まれた。普通にいけば恵まれた環境で送れる人生のような気がする。
父正樹は自ら「過激な国学者」と称する熱血漢であった。
「木曽路はすべて山の中である」と始まる名作「夜明け前」はこの父をモデルとしている。
父正樹は過激な国学者らしく、維新後の軽薄な世の中の洋化に憤慨し、巡行中の明治天皇に扇を投げつけ、不敬罪に問われ、生涯旧家の座敷牢で狂死した。
藤村10歳にして父の壮絶な死は波乱人生の始まりを予感させる。
父の死を受け藤村は、凋落する島崎家を担い上京することになる。
ミッションスクールの明治学院に入学、16歳で洗礼を受ける。この頃から島崎家の血か才能か、文学に傾斜と共に早熟性を発揮する。
20歳で女学校の教師となった。
最初から女学校とは血のなせる業か、血潮がたぎる青年教師である。さすがと言おうか直球まっしぐらである。早くも佐藤輔子という女性に激しい恋情を抱く。
当時、教育者と生徒の恋愛はタブーであった。さらに彼女には親が決めた婚約者がいたのである。しかし、一度抱いた恋心、禁断の愛だからこそか、燃えに燃え煩悶する日々、ついにキリスト教の厳しい戒律との葛藤から教会とも絶縁、退職。この燃えたぎる熱情を冷ます術すらなく、あてもなく彷徨するしかなかった。
波乱は続いた。長兄が事業に失敗し藤村を頼って上京。その翌年、文学界同士の北村透谷が自殺。この同志の不可解な死から立ち直れずにいる藤村に、次は兄が水道敷設汚職で刑務所に収監、兄の家族の生活が藤村にのしかかった。
その、翌年である。熱愛した「輔子急死」という訃報が入る。
作家・西村氏は「藤村の詩は、旧家の宿命に縛られた若き詩人が現実に流血しながら紡ぎ出した絶唱だった」と評した。
ジイもあの有名な「初恋」だけは暗唱できる。
< まだ上げ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君とおもいけり・・・・>
そうだ、歌になった「高楼」もある。
藤村の詩に曲をつけたものである。
♯ とほきわかれに たえかねて このたかどのに のぼるかな~♭
たまに、小林旭や倍賞千恵子の歌を聞くことがあるが、昔は送別の席でたまに歌われることがあった。今聞いてもジイなんかはじ~ンとくる。
その藤村が、詩と決別し、人生を正面から対峙するにおいて小説の世界へ目を向けた最初の作品が「破壊」である。
文豪・夏目漱石は「明治の小説としては後世に云うべき名編也」と激賞したという。
詩にしろ、小説も世間の評価は高いにもかかわらず極貧の生活に追われる。妻が鳥目、食事も満足にとれず、子供3人が栄養失調で亡くす。その後4女を授かったものの、妻フユが出産後の出血多量でこの世を去ってしまう。
4人の幼子を抱え、やもめ暮らしになった藤村の家に、次兄の次女が家事手伝いに入るのだが、一つ屋根の下、若い姪と叔父との危険な関係は姪の妊娠で人生最大の危機に陥る。
フランスへ逃避行、・・・え~子供を置いてか~?しかし戦火で帰国。姪との子は養子に出され、関東大震災で行方不明。人相からは想像もできない破天荒な人生だ。
最後の妻は執筆を手伝った女性・加藤静子である。
これほど己の性の赴くままに生きる。ただ生きるのではない。“ 生き切る ” そこに傑作はひそむのであろうか。
令和の時代感覚で明治を語ることはできない。しかし、我が子4人に妻と兄の死、今でこそ子供が死ぬことは稀である。しかし当時、幼子が死ぬことは間々よくあったことだ。それにしても波乱の人生と言えるのではないか。
最期は死に水を愛する女性のひざまくらで、、、「涼しい風だね」の一言を残し天に召された。
死に際は、生き抜いた人生の絶頂を思わせる、幸せの風景だ。何ともうらやましい。