現代日本の「不寛容論」
Vol.2-3.1-412 現代日本の「不寛容論」
2021.3.1
森本あんり・国際基督教大教授が新聞に寄稿された『現代日本の「不寛容論」』が実に興味深い。
今回、森元首相が国民から大バッシングを受ける中において現代日本の病巣をあぶり出し、かつオリンピック精神の本質へ冷静に導いていただいたことに感謝である。
その論文の要点を切り取ってみたい。
『森元首相は、「女性蔑視」「五輪の精神である多義性』に反するなどと批判され、会長辞任に追い込まれた。
・・・・女性差別問題に改めて注目が集まるようになった。日本社会に根強く残る男性社会の閉鎖性、不寛容さが問題とされていると言ってもいいかもしれない。
一方で、少数ではあるが、いかに社会の多数が非難するような発言でも一切、認めないの不寛容ではないかという疑義も呈された。ある種、対局にある2つの意見に見えるが、ともに「寛容」の理念を前提にした議論である。
・・・森氏は「女性を蔑視する気持ちは毛頭ない」と弁解したが、多くの人々はそれに納得することはなく、発言の中に性差別の意識をみて批判を続けた。
日本には「建前」と「本音」という区別があるが、一般にこの2つは一致しているのが望ましいと考えられている。今回も少なからざる人々は「口先だけで男女平等を唱えるのでなく、心の中の差別こそ根絶やしにせよ」と考えたのだろう。
ただ、寛容ということを考えると、建前と本音の一致を問いただすことは必ずしも得策とはいえないかもしれない。
・・・人の心には道徳や法律の制約はないからである。
誰かが不道徳で不法なことを心に抱いているとしよう。法律上、それを実行に移すことは制約されるが、いかに法律でも心の中まで踏む込んでそれを取り締まることはできない。
同じように、他社を差別する感情は言葉や行為に表現されれば不適切だが、そういう感情を心中秘かに抱くこと自体を咎めることはできない。
・・・むしろ人の心中を問い詰めすぎると、逆に不寛容を招いてしまう可能性もある。・・・マスコミなどにリベラルな言論があふれるあまり、逆に「またか・・・」という反感を招く現象である。
・・・相手に「寛容になれ」と要求して、寛容という価値を押しつけることは、それ自体が逆に不寛容にもなる。
・・・森氏の問題に戻せば、彼の内心まで立ち入って問い詰めようとするのは、やはり不寛容なふるまいだろう。
それに、どんな不適切で時代遅れの思考を持っていようとも、長い人生をその思考で生きてきて、実力者と認められるようになった人に、今さら心を入れ替えるように求めることは難しい。
そのことを認めた上で、公的な地位にある人の公的な言動、外に表われる態度や発言は、やはり慎重であってほしいと思う。
内心でいかなる思想を持つのも自由だとしても、公の場で軽々に本音を漏らしてはならない。建前と本音をきちんと区別することが求められる。
たとえ自分の意に沿わないことがあっても、礼節を尽くさねばならないのだ。
・・・
オリンピックは、異なる思想や価値観を持つ人々が一堂に会し、同じルールで同じ競技を戦う貴重な機会である。
そのような異文化との出会いによって、人は自分が当然と思っていた常識を揺さぶられ覆されることもある。
中には、近代西洋が前提としてきた自由や平等、民主主義などの諸原理とは異なる価値体系をもつ文化もあるだろうし、あまり違いすぎて、理解も是認もできない、という場合もあるだろう。
しかし、寛容は是認でも理解でもない。相手を善と認める必要もないし、相手を好きになる必要もない。
それでも相手に礼節を尽くして共存することはできる。たとえ内心では好きにならず、是認できなくても、相手を拒絶せず、その言葉に耳を傾けていれば、やがて新たな一歩を踏み出すきっかけが生まれるかもしれない。
逆に言えば、われわれができるのはそこまでなのである。』
以上が、森本あんり氏の論旨である。
今回の森発言の「女性蔑視」とされる発言は、 “ 寛容 ” という理念の本質をあぶりだした。それは正しくオリンピック精神の神髄である。
そういえば、高倉健のこんな歌があった。
「時代遅れの酒場」の出だしのセリフである。
“ 人が心に思うことは誰も止めることはできない ”
♭~この街~には~不似合~いな~時代遅~れの~この酒~場に~・・・♯