日本精神の崩壊
Vol.2-5.7-479 日本精神の崩壊
2021.5.7
北海道教育大学・袁克勤教授が2年前に中国に一時帰国して姿を消した。
その経緯である
・2019年5月
母親が亡くなったために北海道から一時帰国した袁克勤教授が音信普通になる。
・2020年3月26日
中国外務省の耿爽報道官は記者会見で、中国で昨年から音信不通となっていた北海道教育大の中国人研究者、袁克勤教授について、「スパイ犯罪」に関する容疑で中国の国家安全部門から取り調べを受けていることを明らかにした。
・2021年4月22日
中国外務省の耿報道官は、既に起訴された。と述べた。
耿報道官は、袁教授が「犯罪事実に対して包み隠さず自供している」と述べ、「証拠は確かだ」と主張した。現在は検察機関が起訴の可否を判断するための捜査を進めているといい、「刑事手続き上の権利は十分に保障されている」と述べた。
産経新聞が指摘するように、証拠が確かならば、何故2年もかかるのか、中国闇の部分である。
袁教授の長女でカナダ・バンクーバー在住の長女は
『当局が拘束を続けるのは、何らかのシナリオに沿って父を有罪にしようとしているからとしか思えない。「法にのっとった手続きを進めている」という中国の発表はウソ。ぜひ父を助けてほしい』と悲痛の叫びをあげた。
同じように2019年9月に中国政府のシンクタンクの招聘で訪中した北海道大学の日本人教授が拘束されたが、日本政府の強い働きかけで2ヶ月後に釈放されている。
妹さんの叫びもそうだが、袁教授の長男は
「自学の教員が不当な拘束を受けたのに、道教大は父のために声を上げてくれたことは一度もない。大学からも見放されたしまった父を思うと、無念でやりきれない。大学の終始消極的な姿勢は残念でならない」と語った。
まったくその通りだ。
道教大もその通りだが、日本政府が何故動かないかも不思議である。中国と言うとまるではれ物にさわるように臆病になる。何を恐れるのだろう。
手加減のない報復への恐怖だ、勝手な推測だが、
1、日中関係の悪化による経済的報復ダメージ
2、日本にいる華僑や中国ヤクザの連携による日本内乱蜂起の企て
3、尖閣諸島への上陸懸念
4、中国にいる日本人12万人のリスク回避
5、過去の贖罪意識。中国への遠慮
これまでの香港問題、ウイグル自治区、モンゴル、チベット、台湾問題、東シナ海、南シナ海、の実態をみれば中国のやり方は想像がつく。
そればかりではない。全体主義国家中国の残虐性は群を抜く。『本当に残酷な中国史(角川SSC新書)』を見れば、残酷性において世界一は間違いない。
それはさて置き、己の大学の学者である。袁教授救を救出するために北海道教育大は何をしたのか。ニュース、新聞、ネット記事をみているが、寡聞にして聞かない。ただ、黙って己にかかる火の粉を避けるために静かに身を潜めるだけ、「教育大学」とは名ばかりそんな大学で立派な人間が育つはずもない。
北海道教育大学の理念は「先進的で深い知見と体験を根底に置き、人を育てることの喜びと尊さの自覚を不断に醸成する」らしい。白けきってものも言えない。確かに掲げる理念から「倜儻不羈」なる精神はみえない。
北海道教育大学だけではない。日本政府も似たり寄ったりだ。この期に及び中国にすり寄る人間。あるいは、ユニクロのように中国新疆ウイグル自治区での強制労働問題について「政治的なことなのでノーコメントだ」と述べ。自社商品に新疆産の綿を使用しているかとの質問に回答もしない。
中国に儲けさせていただいたので、何も言えないのか。嫌な物には蓋をして、ただただ儲けたいだけなのか。何とも情けないエコノミックアニマルそのままである。
これが、日本有数の経済人の一人である。
中村草田男ではないが「明治は遠くなりにけり」だ。かの日本にあった武士道精神は大東亜戦争の敗戦を境に姿を消した。
少なくとも昭和20年8月15日まで武士道精神はあった。敗戦後7年にわたる洗脳政策は日本文化の抹殺と、日本軍悪者論の徹底した洗脳は今の野党、教育行政に立派に生かされいる。そのかわり日本の精神であった教育勅語なるものは、日本人を軍国主義にした悪の病巣のように今も見られている。
教育勅語と聞いて反射的に顔を背ける人、あるいは軍国主義を想起する人など、本当に読んでそう思うのか疑問である。多くが洗脳状態である。それも当たり前かもしれない。つい最近まで、いや今も国会でそんな発言をすれば「軍国主義に戻るのか」と、立憲民主党が騒ぎ立てるのがオチだ。この一事をみても不甲斐ない日本の姿が北海道教育大学の対応と通底している。
日本の良き伝統を復活できない、憲法改正がいかにも悪いことのように野党は反対する。この日本はどうなってしまったのだろうか。ジイは決して極右でもない。日本の明治、大正、昭和の近代を日本人はもっと深く知る必要があるのではないか。学校教育の責任でもある。
戦後日本の無惨な精神崩壊の哀れな姿ばかりが目につき、それが本当の日本のようになりつつある。辛うじて、日本の伝統や古典の素晴らしさを外国人の評価によって支えられているとは皮肉である。
どの国にも光と影がある。影だけを強調し、光を消そうとしてどうする。日本を愛することは日本を知ることである。もっともっと日本を正しく、偏見のなく愛情をもってもっと知ろうではないか。そして少なくとも経済を優先し、我が同胞を救おうともしない日本人に成り下がってはいけない。