おばちゃんの哲学

日本,雑記

Vol.2-5.27-499     安いものは買ってから後悔すべし
2021.5.27

朝のエッセーにあった。

『安いものは買ってから後悔すべし』おばちゃんの信条だ。

何しろスーパーに行って安ければどんなに多くても迷いなく買う。
迷いは一切ない。

『安いものは買ってから後悔すべし』が信条なので “ 後悔先にたたず “ の格言などおばちゃんには通用しない。それどころか後悔したことないというから凄い。

・トマト一箱 300円
・イワシ一箱(50匹) 300円
・すっぽん2匹 1300円
・ブリ10kg 1000円
・キャベツ一箱(8玉) 80円

あまりに多すぎて、冷蔵庫はいつも満杯。満杯どころか入りきらない。

しかたなく近所に配る。それでもあまる。

ある時キャベツを持っていったら、「それ買った」とそっけなく言われ、さあ困ったなどと思わない。何しろ “ 信条は鋼鉄より堅し ” まるで親の敵のようにひたすら食べまくって3日間。意地でも食べつくす。

てなわけで、筋金入りの「安物買い」、常に冷蔵庫は満杯状態。であっても後悔などという心情は一切ない。

ただ一度、自転車のカゴからもはみ出るほど大きい10kgのブリを買って帰った時のこと。

かなりの大きさ、俗にいう「お姫様抱っこ」でないと運べない。ブリを抱えてエレベータ。回りの目は、おばちゃんとブリに、この時ばかりは大阪のおばちゃんと言えど恥ずかしかったようだ。

大きなブリをお姫様抱っこしてるおばちゃんを想像すると笑ってしまう。しかし何のその「家計を預かる者の進む道」と固い信念がある。

う~ん。なかなか逞しいおばちゃんである。

家族構成は不明だが、「家計を預かる・・・」とあるということは主人も子供もいると思われる。

イワシを3日間、キャベツをひたすら食べつくす毎日があっても有無を言わせない絶対的地位にあると思われる。相当の “ カカア殿下 ” であることは想像がつく。

きっと騒々しい食卓であろう。
大きなテーブルに夫を中心に子供が5人。

直吉:「かあちゃ~ん、今日もイワシーー~!?」
かあちゃん:「文句言うんでね~、さっさと食って宿題やんべ~」
花子:「かあちゃ~ん、ブリの煮つけ、いつまでつづくの~」
かあちゃん:「あと3日だ、こんなうめーぶりなかなかあらへん、“ ありがたいと思う心が今日の幸せ ” ブリちゃんに感謝せなあかんよ」
おやじ:「・・・・(黙々と食す)」
二郎:「・・・」
三郎:「・・・」
末吉:「すっぽん、まだ生きてるよ、いつ食べんの?」
こんな一家団欒の夕食風景が浮かぶ。

この大阪のおばちゃん、『安いものは買ってから後悔すべし』というものの後悔は一度もしていない。

後悔どころか誇りに思うまでに高めている。「安物買いとは何ぞや」という本質にせまりつつあるのではないか。いわゆる哲学の域である。

哲学とは物事の本質を考えることである。
人生とは、生きるとは、恋とは、、、その例にならえば「安物買いとは」と本質にせまる行為は哲学である。

以前から哲学とは何ぞや、という疑問があった。
ものの本には、哲学とは「物事の “ 本質 ” をとらえる営み」とある。

哲学は学説ではなく、活動である。
哲学の仕事の本質は解明することにある。と誰かが言った。

このおばちゃんも、「安物買い」の活動を通して本質の解明にあるとすれば、おばちゃんはまぎれもなく哲学者である。

「絶対の真理」とは全然ちがう。あくまでも、できるだけ誰もが納得できる本質的な考え方。そうした物事の “ 本質 ” を洞察することこそが、哲学の最大の意義である。

たとえば、人間は、ただひたすら戦争を繰り返してきた。この悲惨な戦争を、どうすればなくすことができるだろうか? 哲学者たちは何千年も考えつづけた。ルソーやヘーゲルが見出したのが民主主義社会だ。「よい社会」の “ 本質 ” にある。と解明した。

民主主義社会の発見過程は、哲学を理解する上で実に分かりやすい例だ。

大阪のおばちゃんも「安物買いとは」という難問に日々の “ 活動 ” を通して解明に挑むとすれば哲学者である。

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Posted by 秀木石