清水希容の空手道
Vol.2-12.29-715 清水希容の空手道
2021.12.29
あっという間に今年も過ぎた。
2021年も、朝から晩までコロナコロナで明け暮れたそんな年だった。しかし、今年はビッグエベント “ オリンピック・パラリンピック ” があった年なのだ。まだ4か月前のことなのに遠い昔の出来事のように思ってしまう。
思えば2020東京オリンピックは多難のスタートだった。メインスタジアムコンペのドタバタに始まり、エンブレムの類似問題、その上、コロナの影響で異例の1年延期、さらには観客を入れる入れないとすったもんだしたあげく無観客開催となった。
果たして盛り上がるのか。不安の中でオリンピックは始まった。
しかし、いざ始まれば感動、感動の日々に日本中が沸いた。観客のいないことが嘘のような熱狂だった。
水泳の大橋悠衣、体操の橋本大輝、スケボーの堀米、西矢、パラ水泳の木村敬一のバタフライ決勝には今思い出しても感動で涙がでそうだ。
そんなオリンピックだったがジイが印象に残ったのは空手で惜しくも金メダルを逃した清水希容である。
宿敵といわれたスイス、サンドラ・サンチェス選手にわずかの差で敗れた。
彼女の悔しさは痛いほどわかった。
『空手本来の伝統美、芸術性など、力強さだけでなく美しさを求められる形こそ、発祥国の見せどころである。初の五輪で重圧の中、受け継がれた日本の「美しい形」は、この日間違いなく披露された』と記事にした竹園隆浩記者の言うの通りの演舞であったとジイも思う。
相手のサンチェス選手には申し訳ないが、相手を倒す強さだけが空手道ではない。彼女に形の美しさや武道独特の内省美を求めるのは酷かもしれない。武道がスポーツに発展したジレンマともいえる。
清水希容には日本の武芸本来の強い優しさと美しさがあった。日本のわびさびの世界観を外国人が会得をするのはかなり難しいことであり、武道をオリンピックとすること自体、武道ではなく “ 武道スポーツ ” にならざるを得ない切なさを感じる。スポーツと武道の狭間で清水選手は武道に徹したのである。
彼女とは国際対決3勝7敗のライバルである。空手といっても「女子形」、「仮想の敵に対する攻防を組み合わせた演舞」を競うものである。
ある人物に言わせると。
「技の緩急、強弱、呼吸、ネバリ等が基本的に要求される。 無駄な動き排除。四股立ちから四股立ちの移動の時、頭の上下、無駄な足の動き、全身の一致・・自分の身勝手な動きをしない。 直線か?曲線か?のメリハリ、維持。 型の絞め、キメの時の精神的・肉体的キメ。精神的間合いコントロール。残身時間(呼吸) 移動は、幅跳びではなく、スリアシ。平行移動。 重心コントロール。腰の位置もあるが正確には中身が落ちているか否か。目と気持ち、顔の向きの一致。目は不動。全体を見ながら1点に集中する」 等々は形である。
しかし、ジイはそこに美しくも優しい強さが加わってこそ日本の伝統美ではないかと思う。
ジイも決勝を見ていたが、残念ながらサンチェス選手に内省美を感じることはなかった。強さの中にも相手を包み込む優しさである。何故、格闘技に優しさがいるのか?と言われそうだが、本来戦わずして勝つのが日本本来の武道ではないか。
相手の眼を見て、参りましたとなればそれは勝負の極致である。
武道用語に「残心」なる言葉がある。剣技で、相手を倒してなお執る静かな構え。勝って自慢げな顔をするのではなく、これで良かったのかとさらに自らの勝利を反復するという精神のありかた。
そんな形には見えない精神性の高さをジイは清水希容に見た。
銀で悔しいのは分かりすぎるほどわかる。しかし、清水希容が見せた残心こそ日本人である。
外国人にあらゆる武道が広がるのは嬉しいが、ただ、相手を倒すだけの武道だけでなく、日本が伝統的に大切にする心の在り方をも丁寧に指導していただければ、宗教無き日本に “ 武士道あり ” が理解していただけるであろう。
清水希容の “ 空手形 ” は日本武道の神髄をついて唯一無二の空手道であった。
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