断絶名言・安倍公房

日本,,雑記

Vol.3-4.1-808     断絶名言・安倍公房

2022.04.01

ラジオ深夜放送で「断絶名言」なるものを聴いた。

作家・安倍公房(1924 – 1993)が発したいくつかの言葉を考察する番組だった。

すべて興味深い言葉ばかりだったが、未来について語った中に、今起きているウクライナ戦争、及び3年に及ばんとする新型コロナウイルスと相通じるものがあったのでその一部を紹介したい。

この2つの事件?はいずれも突然とはいえ、全く予想されていたわけではない。

例えばコロナウイルス。過去のペストやスペイン風邪など、必ずまた起こるであろうと推測はされていた。しかし人類にとって受け入れ難いものであるが故に “ いつか ” という油断があったことは否めない。

ロシアの侵略も、プーチンの性格、クリミア半島の強引な侵略をみればある程度の予想はついたはずである。しかし、あって欲しくないという願望が備えを若干でも疎かにしたと言えなくもない。

しかし、その日は突然きたのである。

作家・安倍公房(1924 – 1993)の言葉である。

「ふと、未来が単なる青写真ではなく、現代から独立して意思を持つ狂暴な生き物のように思われた」

未来とは、日常の連続の先にあるものだと考えがちである。しかし、そうではなくある日突然不意に現れるもので日常と断絶した先にあると言っている。

今起きいているコロナウイルスもまさにそのようなものだった。

「未来は個人の願望から、類推のできないほど断絶したものであり、しかもその断絶の向こうに現実の我々を否定するものとして現れる。しかもそれに責任を負う。断絶した未来に責任を負う形以外には未来に関わり合いを持てないということなのです」

「未来は日常的連続感へ有罪の宣告をする」

何という厳しい宣告であろうか。私たちは決して楽観もしていないが、備えるにしても人間としての限界がある。それをも見逃してはならないと言われれば、すべてを受け入れざるを得ない。

神ではない、寸時も備えを怠らず類推のできない断絶の先の未来に万全を期すなど不可能である。しかし、結果としてその責任は地球上に生を受ける者がとらざるを得ない。宿命である。

安倍公房の短編に「ユープケッチャ」という不思議な小説がある。

「ユープケッチャの説明をしておきますと、これは『甲虫』の一種で足が退化し、自由に移動ができない代わりに、自分の排泄をエサにしてぐるぐる小さな円を描いて生きているわけです。1日に1周するので時計ムシとも呼ばれている」

自分の便を食べながら同時に便をはきだす。時計のように回転して生きる虫。移動がゆっくりなのでバクテリアが繁殖し栄養価を高めるので生きていける。つまり、自給自足で生きられる虫なのである。

「これは実際にはあり得ないんだけど、僕らの中にはこういうものに対する憧れというかそういう生き方をできればしたいと思うんだよね。一方で同時に今度は外に拡張していく自己拡張の願望が自動的に対立物として出てくるんだ」

私たちは今、新型コロナで半ば強制的に引きこもり状態にある。しかし、生きなければならない。生きるとは食べることである。食べるとは働くことであり、そこには人間関係や苦労が伴う。

「ユープケッチャ」のような自給自足生活ができれば理想である。ところが、それも長く続けば一方の願望が出てくる。人と語り、握手をし肩をたたき合い触れ合うことへの強き欲望である。

番組は安倍公房の「読書」のこんな言葉で締めくくった。

「読まなかったらこういう世界を結局持たずに済ませてしまうわけだからね~。決まった尺度でしかモノが見えないなんて考えても怖いことじゃないか」

コロナ禍の中、軽くて楽しいものがいいと人は思う。しかしこの番組のコメンテーターでもあり、文学紹介者・頭木弘樹氏は「4人の入院患者全員がドストエフスキーにはまった」話をした。身の自由が効かない、明日の命が保障されないと知った時人はどんな本を読むのであろうか。印象深いエピソードである。

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