“ 無観客五輪成功 ” こそレガシー

オリンピック,スポーツ,日本,雑記

Vol.3-7.26-924  “ 無観客五輪成功 ” こそレガシー

2022.07.26

7月23日、東京オリンピック1周年記念セレモニーが国立競技場で行われた。

ああ、去年だったのか、、、遠い昔のような感覚になっていた。ジジイになると新幹線どころではない、リニア新幹線並みに速く過ぎ去る。

思えば去年の春頃には、やるやらないで大変な騒ぎになっていた。

世間は2分された。7割の国民が反対?ジイなどは本当にそうかと思ったが、マスメディアの消極的な姿勢、そこに世間の同調圧力なるものによって強い反対意見が席巻していたように思う。

そのこともあって、選手自身も自分からやりたいという意見すら言い出せない雰囲気に包まれていた。観客を入れてなどもっての他、何ともいえぬ重苦しさに包まれていた。

実際、やりたいと言ったがためにSNS上でバッシングを浴びた選手もいた。そんな中、勇気ある発言をしたのが体操界のレジェンド・内村航平選手である。

「国民の皆さんの『五輪ができないのでは』という思いが80%を超えているのが残念というか、しょうがないと思うけど、『できない』ではなく、『どうやったらできるか』を皆さんで考えて、どうにかできるように、そういう方向に変えてほしいと僕は思います」

なかなか言えないことだ。80%が本当に開催反対なのか?、そうではなく、世界的流行という未曽有の事態に、国民はどうしていいかわからなかっただけではないか

安倍首相は、いろんな意見を総合的に勘案し、やることを前提に準備を進めた。できれば、制限を加えて観客を入れる。しかし世間の大きい声に押され、開催を第一に考え、無観客での開催を決定した。

結果を見れば本当にやってよかった。

開催反対の大合唱をした多くのテレビコメンテーターは、始まったら熱狂の渦に立場を失くした。感動の日々である。無観客がウソのような選手の活躍に日本中が沸いたのである。「反対したコメンテーターよ!謝れ!!」との声が上がったほどだ。

反対を牽引したTVも放送しないのかと思いきや、連日しっかり放送した。

権力が関与するものに対して反射的に反対するメディア、戦後「国家」なるものを忌避してきた残滓が血となり、今も多くのマスコミに宿る。

オリンピックの熱狂は伝える、しかし、それに携わる行政に、成功の果実は渡さない。この偏狭なる精神は何とかならないものか。

オリンピック1周年でそのレガシーの検証が行われている。

聞こえてくるのは「負の遺産」という後ろ向きな評価だという。

教育者は「子供の長所」を褒めよと指導する。それを国家にあてはめよとは言わないが、あまりにもマイナス思考ではないか。確かに、当初予算が7340億円だった。それが1兆4238億円に膨らんだ。1500億円をかけた国立競技場。それらすべてを「負」と決めつける発想。今後の国立競技場の運用、コロナ禍でいろんな制限が加えられる中での開催を含め、もう少しニュートラルな精神で評価できないものか。

多くのレガシーは3年に及ぶコロナ禍で充分に生かしきれないでいる。それは何もオリンピック遺産だけに限ったことではない。全てが苦しみの中にある。

それよりも、多くの感動シーンにコロナ疲れの国民はどれだけ救われたか、無観客の中で集中力を切らさず戦った選手には賛辞と感謝しかない。

ボランティアの機転を利かせた感動のドラマもあった。敗れた選手を抱擁する場面に多くの人が涙した。この「感動」の共有にオリンピックをやる意義はあった。

森喜朗会長の発言を差別ととらえた負もある。しかし、それよりもこのコロナ禍でよくやったと世界は称賛した。日本だからこそできたオリンピックと高い評価ももらった。これこそが日本が誇れるものだ。

感染爆発を起こさず大会を成功させたことは「日本の安定した政治、勤勉で温和な国民性」その根底にある穏やかな愛国心に世界は称賛を贈った。

一部の大きな声だけが世間を誘導しているかに見えるが、冷静に良し悪しの判断をした大多数の国民の振る舞いは日本の民度の高さも示した。

もし、2021年「オリンピックがなかりせば」だ、憂鬱なコロナ2年目を暑い日本をどう過ごしていたであろうか。

ああ、「オリンピックを開催してくれてありがとう」ではなかったか。

個人的には「空手の形」で清水希容選手が金メダルを取れなかったことが今も心残りである。静と動、日本人にしかわからない “ 美しい強さ ” は鋼だけではない。そこが理解されないのが悔しい。

いずれにしても、東京五輪は成功だった。コロナ禍で頑張った日本を冷静に評価し、遺産を次世代にどう生かすかゆっくり考えていただきたい。

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