福島を愛したフランス人
Vol.3-11.23-1044 福島を愛したフランス人
2022.11.23
2011年3月11日 14:46分、東日本一帯を未曽有の大地震が襲った。忘れることの出来ない、恐怖に包まれた日である。今もその傷痕の多くは残されたままである。
あれから11年が過ぎた。しかし帰還困難区域があり、原発処理水は増え続けている。
その「処理水」を海に放出する東電の計画について、原子力規制委員会は22日、安全性に問題はないとして正式に認可した。東電は今後、福島県と同原発が立地する同県大熊、双葉の両町から事前了解を得たうえで、海洋放出のための設備の本格工事に着手する。政府と東電は来春の放出開始を目指している。
その大熊町、今年6月30日午前9時、大熊町内の帰還困難区域のうち、特定復興再生拠点区域の避難指示が解除された。
その避難指示が解除された大熊町に、新たに農業を始めたいと現れたのが、驚くことなかれフランス・ブルターニュ出身の “ かよわい? ” 33歳のフランス人女性である。
TV東京の人気番組「私が日本に住む理由」でその経緯を知った。
◆ 会津のシンボル “ あかべこ ” を愛して11年。
会津若松駅前にある大きな “ あかべこ ” を前に、トツトツと “ いわれ ” を語る言葉には、あふれんばかりの “ あかべこ愛 ” が満ちていた。
会津に降り立ち、初めて出会った “ あかべこ ” に目を引かれた。最初は「かわいい」と思ったそうだ。それがいつしか「美しいに変わった」という。
ブケ・南口・エミリー(33歳)。日本から9700キロ離れたフランスの港町、ブルターニュの出身。父は、警察学校の校長、母は専業主婦の間に生まれた。幼い頃は農業に憧れた少女が何故か、“ あかべこ ” のTシャツを着て福島県会津若松市に住む。
TV番組「私が日本に住む理由」はそんなオープニングから始まる。
しかし、いかにも優しそうな彼女がなぜ、“ 福島 ” それも帰還困難区域である大熊町で農業をやろうと思ったかである。
彼女の育ったブルターニュという町、きれいなグラン・サーブル・ビーチがある。映像で見る限り、街並みは日本人が憧れそうなヨーロッパそのもの、きれいな街である。
幼い頃、彼女は自分を「自分の世界にいる子供」と評した。自分の世界に浸れる子供ともとれる。絵を描くことが好きな女の子だった。
言葉のはしばしから、自分の好きなものへの愛情の込め方が尋常ではないことを感じる。人間としての芯の強さかもしれない。
かといって、情熱的でギラギラしたものではなく、とても静かである。しかし、一度決めたこと、自分の好きなものへの強い思いは、美空ひばりの歌ではないが「♭~一度決めたら、二度とは変えぬ、それが自分の生きる道~♯」そのものである。
祖国フランスにいた時は、日本のアニメ「シティーハンター」を見ていたようだが、好きだったキャラクターは「海坊主」だという。「いかついが、シャイで心優しいところが好き」だというのだが何となくわかる。
司会者が「ひ弱そうに見えるけど、農業できるの?」の言葉に
「できますよぉー」と口をとんがらせて反論したところは負けん気の強さもある。
縁があって日本人男性と結婚。しかし、自分の住みたい土地と「農業への夢」は密かに抱いていた。その農業へつながるチャンスが意外なところから展開し始める。
彼女は日本に来てイラストレーターとフランス語講師をしていたが、たまたま生徒の中に福島出身の生徒がいたのだ。その時、「変な感じがした」という。彼女独特の表現だ、 “ 気 ” を感じとる感受性である。その “ 変な感じ ” の正体をどうしても自分の目で確かめたくて福島へ出かけるのである。
福島に降り立ち、その景色を見た瞬間、福島に心を奪われるのだ。
『私の居場所はここ!』とわかった。瞬時に『住みたいと』と思ったという。
このインスピレーションは何であろう。思いの深さか、いかにも一瞬のひらめきのように感じるがそうではない。彼女は日本に来てからずっと住む場所を探していたのだ。
富士山、広島、長野、北海道、・・・いろんな所へ行って自分が求める場所を探し求めていた中でひらめいたのである、“ 一目会ったその日から恋の花咲く時もある ” そのままである。人には思いが強ければ強いほど、“ 血 ” が感じとる瞬間があるのだ。その瞬間に血が騒ぐのだ。それが福島に立った時に感じた「私の居場所はここ」につながったのだ。
彼女の「情熱と好き」は静かだが強靭である。血にしみ込んだ “ 気 ” のような気がする。
人生は一回だけ、二度とないチャンスを逃すまいと思ったのだ。
日本に来て、最初は東京、2年で横浜へ、2年半で会津に移った。
会津に住み始めて感じたのは “ 人 ” の魅力であった。
「福島のイメージはあまり良くない」
「私に力はないけど、少しでも大熊町のイメージを変えられるように力になれたら嬉しい」
「だから大熊町でやりたい」
大熊町で “ ラズベリー農場 ” を開くと決めた彼女に迷いはない。
当時いた人口は10,034人、今は936人である。
その町で、農場を開く、普通の日本人が考えても大変なことである。しかし、彼女は番組の中で一度も「原発」という言葉を使わなかった。その不安も口にしなかった。彼女なりの気遣いか、あるいは全く気にならないのかわからない。
それよりも、誰よりも日本を信じているのだと、感じた。
日本政府が、「安全です」と宣言した土地に一切の疑問どころか、夢が叶える喜びと将来のビジョンを支えてくれる仲間との計画立案に生き生きとするだけだ。
彼女が日本に来たのは、東日本大震災後の1ヶ月も経たない4月である。両親や家族は当然のように反対した。しかし、彼女は「1度決めたことは必ずやる」。両親の反対を押し切って日本にやってきた。
そして、住む場所を探した、大都会である東京でも横浜でもなかった。探しに探して、福島が一瞬で彼女を魅了した。
日本人からみれば不思議に思うかもしれない。今も風評被害に苦しむ福島だ、処理水ですらままならない。
33歳の若いフランス人の「福島で人生の種を育ててみよう」と彼女の目は迷いなく輝いている。
『頑張ったら、人生の背が伸びるんじゃないかな』とお茶目に微笑んだ。
お決まりの、「あなたが日本に住む理由とは?」と聞かれて、
『大好きな福島の魅力を世界にアピールしていきたい』と迷いなく目を輝かせた。
日本人は、このか弱く見える33歳の女性のどこにその逞しさがあるのか不思議に思うのではないか。
「彼女は二度とない人生だから」という。
杉の木が好きで、近所の神社の杉林を見上げながら、日本人が忌避する福島の地を “ 楽園 ” と評した。穏やかさが好きという彼女。
「自分が小っちゃくてどこまで頑張れるか」とはにかんだ。
この彼女から、福島の復興への多くのヒントや学ぶことは多い。この10年、聞こえてくるのは風評被害、補償問題、原発忌避、放射線濃度、復興の遅れ等々、前向きの話は一向に表にでてこない。
彼女に悲壮感は一切感じられない。会津の「赤べこ」を愛し、毘沙門沼が好き、猪苗代湖が好き、会津の「丸い山は心が落ち着いて好き」だという言葉の数々にネガティブな言葉は一切出てこない。
誰もが応援したくなるのは当たり前のような気がする。
日本列島が負った大きな傷の中に自らの人生の喜びを育てようとする。
いずれ大熊町は “ ラズベリー農場 ” に続く道は “ ラズベリー通り ” に改名、大熊町などのいかつい名前から “ 笑美璃町 ” に変更されるかもしれない。
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