大相撲九州場所にともされた不安の灯

スポーツ,日本,雑記

Vol.3-11.29-1050  大相撲九州場所に不安の灯

2022.11.29

前頭九枚目、平幕・阿炎の逆転優勝で今年最後の九州場所が終わった。

3場所続けて平幕力士の優勝とは何とも締まらない幕切れとなった。感動のインタビューも、今一つ盛り上がりに欠けた。

何が原因なのかわからないが、不甲斐ない横綱、大関陣の上位らしからぬ相撲の内容である。ヤル気があるのかないのか、相撲への覇気が一向に感じられない。わずか貴景勝に大関の意地らしきものがみえたが、今一歩大関の盤石の強さとは程遠い感じがする。大相撲をこの様にした原因は何だ、探したくもなる。

例えば、「相撲協会の相撲教育のあり方」、あるいは「各部屋の親方の指導方法や相撲への愛情」などなどいろいろと思い浮かべる。

二昔前の春日野理事長(栃錦)や二子山理事長(若乃花)のように相撲道を感じさせる心技体の備わった力士は大鵬で終わったような気がする。

時代の流れだと言ってしまえばそれまでだが、信念なき厳しさは暴力事件を生み、何度も角界を揺るがした。双葉山が、無心の境地に至れなかった自分を戒め「われいまだ、木鶏たりえず」などと口にできる力士が、今いるであろうか。

ただ、相撲が強くなればいいと考えて日々練習を積んでも、その根底にある精神の成長が伴わないと、厳しいことを言うようだが、朝乃山のようになる。朝乃山だけではない、今の大関陣は同類である。

朝乃山への期待は今も大きい。しかし、その叱咤激励を己の成長の糧とできない未熟。

今場所も先場所と同じ、元大関が幕下相手に全勝出来ない。幕内、十両などと違い15番取るわけではない。たった7番に集中できないのだ。未だに性根が据わらない。相撲道へ真摯に向きあえない甘さは昔のままだ。

体格、相撲の技術、心技体と言われる中で「技と体」は申し分ない。しかし「心」がいつまでたっても育たない。人相に “ 求道心 ” なる姿が表れてこない。何年も前から将来の横綱と期待され、浮き足立ったのか、自らを過信しすぎた故の過ちだったのか、反省し徹底して己を見つめ直す姿勢が欠けている。

人間、誰しもちやほやされれば時として過ちを起すものだ。しかし、その後、いかに己の弱さを自省し乗り越えるために、真剣に考えなければならない。

経営の神様、松下幸之助が『道をひらく』という随想集の中でこんなことを書いている。

「真剣勝負」

剣道で、面に小手、胴をつけて竹刀で試合をしている間は、いくら真剣にやっているようでも、まだまだ心にスキがある。打たれても死なないし、血も出ないからである。しかし、これが木刀で試合をするとなれば、いささか緊張せざるを得ない。打たれれば気絶もするし、ケガもする。死ぬこともある。ましてや真剣勝負となれば、一閃が直ちに生命にかかわる。・・・勝か負けるかどちらか一つ。負ければ命がとぶ。真剣になるとはこんな姿をいうのである。

人生は真剣勝負である。だからどんな小さな事にでも、生命をかけて真剣にやらなければならない。・・・しかし、長い人生ときには失敗することもあるなどと・・・これは失敗した時の慰めのことばで、はじめからこんな気がまえでいいわけがない。真剣になるかならないか、その度合いによってその人の人生は決まる。・・・」

大器であるが故、日本の国技、相撲の隆盛に朝乃山の力が必要だから言うのである。いつまでもファンを裏切っていると本当に「生きて死す」“ 生ける屍 ” となってしまう。

九州終わって心機一転、初場所!さあ “ 頑張ろう! ” との気合が入らない。

バタバタと大関陣がくずれ、もはや大関は一人になった。横綱・照ノ富士の復帰の可能性は微妙である。万が一横綱不在となれば、大関・貴景勝一人の初場所となる。まさに土俵は、“ 風前の灯 ” となる。

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