9月入学

日本 雑記

Vol.1-5.20-127  9月入学
2020.05.20

今回のコロナ問題から、教育の遅れが指摘される中、空白を埋める目的もあるのだろう、一気に9月入学にしたらどうかという議論が湧き上がった。

小池都知事を始め、多くの著名人も前向きの姿勢を示している。
この問題こそ、コロナのどさくさに紛れてやる問題ではない。
そう確信したのは「九州大学教授・施 光恒(せ てるひさ)氏の論説を読み、今までモヤモヤしていた気持ちが少し晴れるような思いをした。

ジイも9月入学は絶対だめだとは思わないが、今すぐやる問題ではないと得心した。

<施 光恒教授の論説の要旨>だ。

9月入学論が盛んになる中、今回のコロナ禍は歴史的出来事と認識したうえで。
次の2つの議論を明確に区別する必要があるという。

(1つは)難局にに直面してもそれに耐えうるよう国や社会のあり方を強靭化しようとするもの。
(もう1つは)混乱に乗じて本来関係ない大規模な社会改造をこの際、やってしまおうというもの。

前者は必要だが、後者は現場の人々の仕事をいたずらに増やし、疲弊させてしまうだけと指摘した。

その後者にあたる「9月入学案」のダメな理由として物理的な面と日本の土壌が育んだ精神面を上げ論説を展開している。

<物理的には>
「学校の行事や制度の変更から、各種法令の改正、会計年度と学校歴がずれることへの対処に至るまで新たな仕事が大量に発生する。教育や行政の現場を更に疲弊させる。」

<国民の結束や協調の絆の弱体化>
今回のコロナ禍でわかったように、「欧米諸国のように、外出規制などのを厳しい罰則で徹底できない。法整備も難しい。それにも増して、国民が厳しい統制を好まない。従って、日本では難局に対処するための結束や協調をもたらす国民相互の絆が特に必要である。」と言い、絆の弱体化を招く恐れがあるとする。

それでは<国民の絆を形づくるものは>何かということだ。
施 光恒教授は「記憶や体験の共有」の大切さだ。と強調する。

学校教育がもたらす共通の経験や感覚から生じる記憶。
~制度を変えると~ 
「変更以前と以後に大きな分断を生じさせてしまう恐れ」を指摘。

「9月入学では桜の下での入学式や卒業式がなくなってしまう」という意見に対し「情緒的な意見に過ぎない」という反論がある。
しかし、「情緒的だ」と簡単に片づけてはならない問題」だという。

「現代日本では「桜と卒業式や入学式」という結びつきは、世代を超え国民を結びつける大切な記憶の絆、イメージの絆の一つである。」

「例えば、卒業式を題材にした従来の音楽や小説、映画も、9月入学が決まれば、その後の世代はあまり楽しめなくなる。卒業式や入学式だけではなく。各種の学校行事や部活動、受験などの記憶もこれまでとは異なるものになってしまう。」

「夏の甲子園などは3年生が参加できなくなるので、盛り上がりはなくなる。甲子園を題とした多数の小説や映画、マンガなども新しい世代には親しみが感じられなくなる。」

「国民の絆は、このような一見、些細な事柄、日常の事柄の積み重ねでできている。9月入学への制度変更は絆の弱体化につながる恐れが大きい。」というのである。

結論として
「9月入学推進論は、教育や行政の現場を混乱させ、強靭化という本来の課題に取り組む力をそぐだけでなく、世代を超えた国民の絆を分断し、難局への国や社会の対処力そのものの基盤を弱めてしまう恐れが大きい。」と結論づけている。

ジイは9月入学を否定するものではないが、有識者が前のめりになっている現状にちょっと恐さと、わけのわからないモヤモヤした不安感を抱いていたが、そのモヤモヤの原因は施教授の絆につながる情緒的なものだということが分かった。

検察の定年延長で国会はもめているが、この問題こそ拙速に結論出すべからずだ。
時間をかけ、国民自身が考えられるあらゆるプラス・マイナスの影響を充分理解した上での議論がなされるべきで、この問題の大きさは検察の定年延長や、憲法改正よりも重要かもしれない。

ジイは情緒と聞くと日本が誇る世界的数学者「岡潔先生」の書かれた「情緒と創造」を思い出す。
日本人の中にある情緒の重要性を説かれているが、一読をお勧めしたい。

施教授の言われる「情緒という不思議な感情を決して甘く見てはいけない。」という意見。
己に置き換え、じっくり考えてみるべき重要な問題である。

世間の拙速な動きに注意しなくてはならない。