無常
Vol.1-5.26-133 無常
2020.05.26
ゆく河の流れは絶えずして しかももとの水にあらず 。
よどみに浮かぶうたかたは かつ消えかつ結びて、久しくとどまるためしなし、、、、、。
4、5日前に腰を痛くしてから歩くのが辛い日常となった。
1日、2日で何とかなると思ったが2日目にして改善見られず、仕方なく3日目に整形外科に行った。
案の定、受付30分前にすでに32人が受付を済ませていた。
過去の教訓は生かせず、結局午後の診察となった。
特別のことはなかった。レントゲンを撮り、脊髄の骨が老化とともに狭くなりつつあった。さらに一番下の骨に若干のズレがあった。
先生は「この程度は仕方ないですよ、歳をとれば皆さん一緒です。特別悪いというわけではありません。」と慰める。
薬と湿布薬をもらって様子を見ることになった。
あれからさらに3日が経った。
確かにだいぶ良くなったが、良いと思って背筋を伸ばすと痛みが走る。
腰を曲げる老人が多いというのは、そんなことがきっかけで楽な前かがみ姿勢を固めてしまうのだろう。
しかしここでの妥協は自ら老衰を呼び込むことになる。気を取り直し焦らず回復を待つと腹をくくった。
昨日は久しぶりに天気もよかった。
天気がいいと気分も体も何となく元気になる。
月曜日、そうだハローワークへ行こう。そう思って自転車を颯爽と踏んだ。
無情にもまさしく無常だ「5月31日まで、コロナで閉鎖」とある。
がっかりだ、、、天気もいい。少し自転車で散歩しようと気分を変え気の向くままに走った。
川のほとりの公園には、家族ずれに老人の姿がちらほら、少々強めの陽射しだが、¨のどか¨といえる景色に溶け込んでいた。
少し座って、少し歩く、川は以前よりきれいに見えた。
魚が泳いでいる、つがいのカモが頭を川に入れたり羽づくろいをしたり、広げたりひと時も休むことなく動いている。
腰の痛みを少々感じながら歩く土手にかつての元気が思い出される。
果たして、元気に働けれるのか。
風景は変わらずただそこにあるだけだ。何も言わない。
たまに吹くやわらかい風にのって綿帽子が不意にまとわりついてきた。見上げれば無数に浮遊している。まるで空から舞い降りてくるように。
良く見ると大きな木の枝につく綿のような塊が風が吹く度に無数に舞い上がっているのだ。不思議な光景にしばし天を仰ぐ。
綿の木の周りに3人の老人グループがスマホをかざしている。
「何という木ですか?」聞いてみた。
「ケショウヤナギ(化粧柳)です。」と教えてくれた。
初めて聞く名前だ。
帰り道、いつもの散歩コースに入った。
目に入ったのが、いつもウォーキングの時、気になっていた見知らぬ家主の基礎工事、あっという間に建物がすでに組み上げられていた。びっくりだ。思いのほか大きな家になっていた。
そうだ、もう4日も歩いてないことに気がついた。
懸命に歩いている時は気が付かない時の流れ、たった4日だが、すでに4日が流れている。
猫のひたいほどの我が家の庭も、日々姿をかえている。あの可憐なバラが先日の雨のせいか、ある日突然すべての花びらを落とした。
地面に散らばる無惨な花びら、残酷にも思える自然の厳しさだ。
主の心を癒すかのようにゼラニウムが精一杯花をつけてくれた。
そう言えば、このハゲ頭の芝生も昔は裸足でも歩けるほどふさふさしていた。
緑の新芽をつけてきたツゲの木も、いつの間にか4本の枝を亡くしている。
角にあった花水木、今はない。
2年前に撮ったスマホに、青々した草の庭で水遊びをする孫の写真がある。
あの日の草は今いずこ、、、ではないが、この小さな庭ですら、日々同じ姿はない。
・・・無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或いは露落ちて花残れり。残ると言へども、朝日にかれぬ。或いは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども、夕べを待つ事なし。
無常を争うさま・・・今も昔も同じである。