グローバルという幻想

世界,日本,雑記

Vol.1-6.1-139 グローバルという幻想
2020.06.01

グローバルという言葉はずいぶん前からまるで ¨未来のあるべき姿¨ かのように何かにつけ叫ばれてきた。まるで未来を語る時の枕詞のように。

つい最近も、新型コロナウイルスの緊急事態宣言が出され、自宅待機や、テレワーク、時短勤務、ステイホーム、学校の休校が強いられる中、9月入学が急浮上した。

休校の影響から、教育の遅れが指摘された。この災難がチャンスと捉えた一部の識者から学校の9月入学切り替えが一気にクローズアップされた。

その時の小池東京都知事の発言が「9月入学への切り替えはこの¨グローバル¨な時代にマッチする」と大賛成の意思をいち早く出したのが象徴的だった。

小池知事は大臣時代も「クールビズ」を定着させたり、「都民ファーストの会」『ステイホーム』とワンフレーズでのアピールを最も得意とし、しかもカタカナ語で語るところにいかにもグローバルを感じさせる政治家の代表と言える。

この新型コロナウイルスの考察の中で、京都大学名誉教授・佐伯啓思氏の論説があった。

ジイは昔からこの佐伯教授理論は論点が整理されていて分かりやすく、無学のジイには理解しやすくていつも注目して読んでいる。

その佐伯教授がコロナ禍が引き起こしたグローバルの弊害を語った。

1、グローバルな金融経済は極めて不安定化し、リーマンショックを引き起こし、政府が「強力な財政金融政策によって経済を支える」というケインズ主義の回帰が始まる。
2、グローバル競争は所得格差、資産格差を生み出し、国民経済に動揺を与える。
3、過度なまでのグローバル競争は、保護貿易、自己中心主義に行き着く。
4、あろうことか、共産党が支配する中国がグローバリズムの勝者となり、各国が中国依存となった。
5、地域的グローバリズムというべきEUの実験は失敗した。
6、過度な7、市場競争の結果、多くの国で、医療、福祉、教育、地域コミュニティなどの公共的社会基盤が弱体化した。
7、本来は公共的財産であるはずの情報・知識がGAFA(米IT4社)による利益独占問題とSNSなどにより社会が振り回されることになった。
8、グローバリズムとイノベーションにもかかわらず、先進国はさして成長できていない。

以上のような指摘であるが、まさにその通りだと思える。

グローバルとは世界がまるで一つの市場になったような錯覚に陥る。
情報は世界共有できたが、結果としてIT大手4社Google・Amazon・Facebook・Apple(GAFA)に利益が独占された。

グローバルによって幸せももたらすはずの世界市場が、たまたま新型コロナウイルスの発生源が共産主義であった不幸もあったが。グローバルとは名ばかりで、情報は同じ価値観で共有されず国家間の互助機能は作動せず世界中を大惨事に陥れた。

サプライチェーンに至っては、経済すべてが中国経由という不幸中の不幸が重なった。
グローバルとは同じ価値観と国家の体制・主義がほぼ一致していないところに機能しないとことを世界は初めて知った。

その意味で、まだTPP(環太平洋経済連携協定)のような一定のルールの下で行われる体制の信頼性が上がるのではないかと推測する。

「グローバル」といわれるだけで何か素晴らしい未来を予感してしまう日本人が多い。
自国の安定的な生活の上に築き上げられなければ何の意味もない。

世界の現状は中国の思惑一つで経済は大混乱をきたすことがわかった。
佐伯教授の言われるように、安定重視のナショナルな「公共的資本主義」はもっともだ。

まず、世界がとんでもない状況に陥った時、最低限自国の公共的基盤が致命傷を起さないということを前提にした今後のグローバル社会を考えなくてはならない。

日本人は明治のころから、欧米至上主義が未だ抜けきらない。
コロナで日本の死者数をみても決して世界に引けを取っているわけではない。
自信をもって日本を再構築すべきではないかと思う。
先ずは最低限の自給率を確保し、少なくとも共通の価値観での同盟国との紐帯を強くし地道に足元を固めることだ。

グローバルよ!!ちょっと待ってくれと言いたいところだ。
急がず、慌てず、ゆっくり行こうよ。として、
今後の日本の生き方を見直し、日本流を模索すべきチャンスだと思う。

さあ!出直そう日本!!とジイは言いたい。

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