太古の昔に思いを

日本,雑記

Vol.1-7.2-170 太古の昔に思いを
2020.07.02

まるでかじったリンゴのように見える奇岩が夕映えの海岸にそびえ立つ。見る方角によっては今にも倒れそうだ。

 長崎市の中心街から車で30分ほど。「かきどまり白浜」(長崎市柿泊町120)にある風変わりな岩がSNSなどで「りんご岩」と話題になっている。高さは15メートルほどで、中央部が波などに浸食され、現在の形になったという。

・・・・・と紹介されていた。

この「リンゴ岩」地元では昔から、傘を差したような形から「傘岩」と親しまれている。
同市福田地域センターの田平大樹さんは「補強などはせず、今後の推移を見守りたい」と話しておられるというが、個人的わがままを言えば、決して補強などしてほしくない。

さぞかし、200年や300年の話ではないと思える、数千年、それ以上の年月により少しずつ目見えない形で姿を変えたものと思われる。
<https://www.sankei.com/life/news/200628/lif2006280020-n1.html>

時間の経過という視点でみても、地元の人が、子供の頃見た岩の形が大人になって地元に帰ったら、まるで形が変わっていたなんてことは普通はありえない。
「懐かしいなあ~、子供の時と全く変わってないや」と感動する。もし、変わったとしたら、それは人の手が加えられたと言うことだろう。

ジイも田舎に帰った時、風景を見て変わったなと思ったのは、川の水が減ったことと、畑や田んぼの周りに網が張られていたことだ。

なんだこれは?穏やかな田園風景に至る所に金網が張られていた。

水量が減ったのは、戦後、産業として使う木を増やすため、山々には多くの若木が植林された。杉は成長が早く、住宅用建材として最適だとされていたので、多くの山々は杉を中心とした人工林へと変わっていったのだ。

自由貿易が始まり、安い輸入材が大量に市場に出回るようになり、杉の市場価値が下がり、日本の杉は需要が無くなった。売れないから、切らない。という時代になってしまった。

切らなくなった人工林は放置された。密集した人工林は、枝打ちや間伐などの手入れをしないと地面に光が届かない。そんな地面には、草が生えず、土が固くなり、雨が降っても水を吸い込まない。雨は地表を一気に流れ出るという悪循環。

人工林で覆われた山の保水力が失われたことで、日常的に川へ送り出す水量が減り、川の水量が減少したというわけだ。

ジイも小さい頃、近所の山へ「木起こし」という仕事を手伝ったことがある。植えた木が身長より大きくなった頃に、横になった木をまっすぐに育つように大きな木の助けを借りて縄で縛って木を起こすのだ。

今じゃ山は荒れ放題。シカやサル、イノシシに占領されてしまった。
畑や田んぼを荒らす動物から守るために張られる金網は、田舎の風景を味気ないものにしてしまった。

田舎に帰った時に聞いてみた。
計画的に駆除したらどうだと。とんでもないという。動物愛護団体から文句が出るので、保護地区をはずせないという。
何というエゴだろう。人間の生活よりも動物愛護を優先する本末転倒のことが堂々とまかり通っている。そう言いながら、焼き肉を美味しそうに食べる人種がいるのだ。

和歌山太地町のイルカ追い込み漁を糾弾した米国の動物愛護団体の悪業と似ている。

ところで、長崎市のリンゴ岩だ。
「かきどまり白浜」海岸には弁天白浜と小白浜という砂浜があり、その両方の砂浜の間にはバーベキューやキャンプのできるスペースがある

ただ、公式な海水浴場としては平成26年で終了している。
したがって泳ぐ時は「監視人がいませんので、遊泳の際は、十分注意してください。」ということだから泳ぎを禁止しているわけではない。

どちらかと言えば大人の海だ、バーベキュー施設があり、バーベキューを楽しみながら夕陽を見るなんていうのもなかなか体験出来ないシチュエーションだ。

海水浴場としての閉鎖によって人が少ないのもいい。ジイなどの老人は静かな海岸で海に浸かったり砂の上に寝転んだり、・・・・椅子をおいて一日中海を見ていても飽きないような気がする。

デッキチェアを置いて、何も考えず、何もせず、ただ無為に過ごす一日があったら何もいうことはない。さらに言えば、満点の星を仰ぎながら瞳をとじ、静かに天に召されればこれ以上の贅沢はない。

見果てぬ夢だ。

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Posted by 秀木石