Vol.2-9-26   母
2020.02.09

ジイの母は9年前に99歳で天寿を全うした。

後、1年と誰もが願ったが、叶わなかった。
もう80歳を過ぎたころからあまり出歩かなくなったが、80を半ば過ぎた頃だろうか、兄貴がいつものように帰るコールをした時だった。
いつになく母が「寂しい」と言った。その一言で、兄は退職し、
その後は母親の傍を離れることはなかった。

その母は、村の誰からも好かれていた、
「てつ」という本名はまるで「鉄」のイメージがあり母の名前を聞かれるのが子供心に嫌だった記憶がある。
幸い、村の人たちは「おてちゃん」との愛称で呼んでくれた。
知らない人でもおてちゃんの子といえば分った。

兄貴は母のことを同じように「おてちゃん」と呼ぶ。
独り身の兄は、母を我が子のように愛した。
介護が必要になってからも何一つ愚痴ることはなかった。
電話で様子を聞くと、母にまつわる話はとまらなかった。大変さをおもしろ可笑しく嬉しそうに話してくれた。
ある時は
「風呂に入れたら寒いと言って騒ぎだし、「たけっさ~ん(隣のおじさんの名前)、殺される~、助けてくれ~!」と叫ぶんだよ、虐待なんかしてないんだけど、と笑って話す。
何しろそばにいて介護していることが楽しくて仕方ないという世にも稀な親子だった。

遠くにいても何一つ心配することはなかった。

その母が亡くなった時、悲しみもさることながら、兄貴の心配をした。
火葬場の炉の前で、火を入れるスイッチを押すよう係員に促されたが、なかなか押せず煩悶する姿は今も目に焼き付いている。

今も、携帯の待ち受け画面はおてちゃんの元気な時の写真、部屋には遺影の他に2枚の写真を掲げ、おてちゃんは、今尚兄貴の支えになっている。
何という幸せな母親であろうか。

ジイの小、中学生時代はある意味母と私だけの母子家庭だった。
遠くの町で親戚の家に居候して働いていた父は週に一度しか帰らなかった。
貧乏というより、家にお金はないということが何となくわかった。
だが、母はいつも明るかった。愚痴を聞いた記憶もない。大変なことも楽しいそうに話した。

近所の親しい先に金を借りに行かされたこともあった。
すでに話がついているのか、私が行くとすぐに渡してくれた。
この辛い思い出は強く残った。が、その教訓が自らに生かされていない。深刻に受け取る能力に欠けていたのだろう。

お金には苦労したと思うが、金の苦労を聞いたことはなかった。
ただ、必死に働いていた。河原の空いている所を畑にしたり、無許可で女性にあん摩をした。村の農繁期には頼まれればどこへでも田植え、稲刈りに出かけた。
母が必死に働いてる姿は子供心にわかった。
根っからの楽天家なのだろう。村の行事には近所の楽天仲間3人と寺の舞台で踊ったり、歌ったりするのが常だった。昭和の時代の楽しい思い出だ。

その、母に悪いことをした思い出が今も心の傷として残っている。
社会人になってからのことだ。
手帳を忘れ、自宅に電話した時だ、手帳のメモを読んでもらおうと思ったが、なかなか理解できない。
私はイライラしながら電話を切った。
その時ふと思った。小さい頃の母の断片的な思い出話だ。

ただ生きることに必死だった大正末期から昭和初期、
小学校へは住み込んだ先の赤ちゃんを背負って通った。
子供が泣けば教室を出されたという。そんな話を世間話のように話してくれた。
小学校を卒業したか、しないか知らない。
そう言えば、その母が、書いた字を見たことがない。

その記憶が蘇った時、私は心の中で無神経で非情な自分を責めた。

字が書けるのか、読めるのかさえ聞けなかった。
その母が、仏前で毎日「般若心経」をそらんじていた。
お坊さんが読むのを耳で聞き覚えたのであろうか。

あの世へいったら聞いてみたいことがいっぱいある。

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雑記

Posted by 秀木石