軍神(戦後75年)

日本,雑記

Vol.1-8.16-215  軍神(戦後75年)
2020.08.16

昭和62年頃だと思う。日経新聞に「交遊録」と題して、たまに気になるエッセーが載ることがあった。
印象に残ったので、スクラップしたのが下記のエッセーだ。

『無言の「軍神」』(環境庁長官・鯨岡兵輔)

『昭和16年夏に近いころであった。当時の仏領インドシナ、現在のベトナムに、日本軍はいわゆる平和進駐した。私は地上勤務の陸軍航空少尉で兵二百人ほどを統率して、ハノイ飛行場におられた加藤少佐(後に戦死して軍神といわれた加藤隼戦闘隊長)の戦隊に配属された。
               ◆
南国の町は、夜は遅くまでというよりは、むしろ朝方までにぎわっている代わりに、昼は店を閉じて暑さをさけていた。それなのに、軍は規則にやかましく、日曜の外出でも焼けつくような日中の外出しか許さなかった。それでは気の毒だと思った私は、特別にはからって、兵全員の夜の外出を許可した。
               ◆
喜んで夜の歓楽街にくり出した兵隊は、原地民を虐待する一人のフランス人将校の横暴に憤激して、みんなでこれを袋だたきにした。これが日仏両軍の間に大問題となり、上官である加藤隊長に大変なご迷惑をかけてしまった。
               ◆
「加藤隊長がお呼びです」というのですぐにうかがった。加藤隊長は、飛行機のピット(天幕の戦闘指揮所)で机に向かっておられた。
               ◆
「鯨岡少尉、お呼びにより参りました」。
どれだけしかられるかそれを覚悟して、私は隊長の側に立った。
ちょっと私の方を向いた隊長は、
「うむ」
とうなづかれて、また机上の書類に目を移され、再び私の方を向かなかった。
まるで、私がそこにいることを忘れたかのように、十分、二十分。
               ◆
その間、私は不動の姿勢であった。三十分もたったろうか、ふいに顔をあげた隊長は、静かに言った。
               ◆
「何で呼ばれたのかわかっているか」
私はいよいよ姿勢を固くして答えた。
「ハイ」
隊長は、だまって私の顔を見ておられたが、ちょっと笑みをうかべて、
「よし!! 帰れ」  
私はびっくりして
「鯨岡少尉帰ります」と答えた。
               ◆
そのとき、私は心臓に針をさされたような衝撃を覚えた。ただそれだけである。ただそれだけであった。それが、「軍神」と言われた、加藤隼戦闘隊長の思い出である。』
(環境庁長官)

ジイはこの軍人同士のやりとりがまるで映画を見るようにハッキリ目に浮かんだ。
本来なら、直ぐにでもその非を責め直立不動の鯨岡少尉に向かい
「足を開いて歯をくいしばれ」と一喝し、張り倒して終わり。ということもあり得る。

あるいは、軍律厳しい中ではあるが、優しくさとし、「わかったか、もういい」と返す方法もある。

しかし、加藤隊長はそうはしなかった。
直立不動の鯨岡少尉をそばに、30分もまるで何もなかったかのように書類に目を通している。
果たして、欧米の兵隊の上官と部下のやりとりの中で、このようなことが可能であろうか。と思った。

30分という時間の意味である。
考えるに。
一つは、30分の沈黙の中、直立不動で立つ姿の中に鯨岡少尉の人格を見た。人格ありと見た隊長、無傷で返すには30分の時間が必要だったのである。
それなりの説教を受けたとする時間だ。
30分、、、まだ帰らない。鯨岡少尉の戻りが遅いと心配する部下。その部下の反省をも促す時間としたのではないかと想像する。

全ての兵隊がこのようであったとは思わない。しかしこの上官に備わった厳しさと優しさが、敵を倒すことを目的とする軍隊という組織の中にあったのは事実である。だからこそあそこまで戦えたと思える。

横井少尉が戦後30年も経って発見された時、「上司の命令なしに下山できない」としたその心の在り様が30年変わっていなかったというのが、感動として思い出される。正に鯨岡少尉と相通じる軍人としての品格と人格を思う。

私たちは戦争の悲惨を語るばかりだ。ジイはこの加藤隊長と鯨岡少尉の情景の中に尊敬と信頼と軍人としてあるべき姿への揺るぎない姿勢をみて目が潤んだ。

先人があって今がある。命を賭して日本を守り抜いた軍人の多くはあの靖国神社に眠っている。
その靖国を決しておろそかにしてはならない。他国の不正な介入によって参拝すら出来ないなど、あってはならないし、英霊にこれほど無様な日本を見せて平気な日本人になってしまったことに、ただただ悲しいだけである。

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Posted by 秀木石