沖縄・集団自決(戦後75年)

日本,,雑記

Vol.1-8.17-216  沖縄・集団自決(戦後75年)
2020.08.17

大東亜戦争の終結間近、悲惨極めたのが、広島、長崎と共に沖縄玉砕である。

広島、長崎は一瞬の出来事であった。しかし、沖縄玉砕は人間が極限状態におかれた中で起きた想像を絶する、集団自決という地獄絵を残した。

この実相はそう簡単に表現できるようには思えない。
江戸時代のように、己の不始末を切腹で始末をつけるという明確な意思の中で死を全うするという、頭で理解できる代物ではない。

昔、柳田国男が書いた「山の人生」を思い出した。
この山の人生の冒頭に、ある炭焼きの男が、貧困の中で、その窮状を察した子供2人が、丸太に首を載せ、この斧で殺してくれという実話があった。
男は、頭がくらくらとしとっさに手にした斧で二人の首を打ち落としてしまうのである。

当然だが、この男は殺人罪で服役をするのだが、精神の錯乱が一瞬起き、前後の考えもなく二人を殺してしまう。
この刹那に男の心の中に何が起きたのか、さすがに冷静に振り返ることができる精神状態ではなかった。

この沖縄戦において起きた集団自決は、戦場の真っただ中に置かれた一般市民の恐怖と、それさえも超えた精神の錯乱の中にあったと想像する。
当時この戦場を任された赤松隊の赤松隊長の命令があったのか、なかったのか、戦後、沖縄の鎮魂はこの責任に苦悩する。沖縄に現存する資料は赤松隊長の命令によって決行されたとの記録がある。

島の人は「皆に手りゅう弾を渡され集団自決をした。死にきれない者はカミソリや斧、鍬、鎌などの鈍器で、愛する者を倒した」というのである。

その通りのことが起ったことは事実であろう。

沖縄人の赤松隊長に対する怒りは尋常ではない
「・・・A大尉には自分の強行した残忍非道な行為に対する自省も悔悟もまるでないと伝えられている。まったくもって人非人であり、人面獣心とはこのことだろう。彼の毒手にたおれた数百名の沖縄同胞のため、いくら憤激しても憤激したらぬものである」。浦崎純氏の著書『悲劇の沖縄戦』に書かれたこの言葉が住民の心情を代表しているものと思われる。

赤松隊長は昭和45年3月、沖縄・渡嘉敷島で行われた「二十五周年忌慰霊祭」に訪れる。
「赤松帰れ!」「人殺し帰れ!」「県民に謝罪しろ」「お前は沖縄人を何人殺したんだ」非難が渦巻く中、抗議団代表が抗議文を読み上げる。

赤松隊長は、じっと無言で立ち尽くす。やがて朗読が終わった。

赤松隊長はやっと口を開いた。
「事実は違う。集団自決の命令は下さなかった。捕虜になった住民に死刑を言い渡した覚えもない」

人々は激昂し、詰問の声がとぶ。
「・・・なんだその開き直った態度は・・・沖縄の人たちが自決したのは事実だ。自決を命令したあなたが生きているのも事実だ。それはいったい何か」

沖縄にはこの集団自決の記録は3つある。
1、「鉄の暴風」・・・沖縄タイムス社
2、「渡嘉敷島の戦闘概要」・・・遺族会
3、「渡嘉敷島における戦争の様相」・・・琉大図書館
作家、曽野綾子氏の調査によれば、それぞれに文章上の類似点から、決して独立して個々に調査されたものではなく、むしろ第一のものが、第二のものの種本になり、第二が第三の資料になったと言う形で、少しずつ、整理されたり書き加えられたりしているという。

それは全く同じ文章があるのと、間違いがそのまま記載されている等による判断だ。

地元にあるこの3つの記録とは別に、作家大江健三郎の著書「沖縄ノート(1970.9)岩波新書」がある。

大江氏の軸足は、沖縄の住民の中の反権力派に置かれている。ジイにとってはなかなか難解な文章だが、集団自決に関しては「間違いなくあった」との立場である。

<沖縄ノートの一部抜粋>
「僕はまた、集団自決を引き起こすことになった島を再訪しようとして拒まれた旧守備隊長(赤松氏)に、おまえはなにをしにきたのだ、と問いかける沖縄の声・・・・・日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか、という暗い内省の渦巻きは、新しくまた僕をより深い奥底へとまきこみはじめる。そのような日々を生きつつ、しかも憲法第22条にいうところの国籍離脱の自由を僕がしりながらも、なおかつ日本人たり続ける以上、・・・・」

大江氏は赤松隊長と同じ日本人であること、その日本にいることすらつらい。できれば日本国籍を離脱したいができずにいる。
苦悩する姿は果たして誰に向けてなのか、何を言おうとしているのか頭の弱いジイには理解できない心情だ。

この「沖縄ノート」から36年後、曽野綾子氏は「沖縄戦・渡嘉敷島/集団自決の真実」なるものを上梓した。

曽野氏がこの本を書こうとした動機が面白い、と言っては不謹慎かもしれないが、曽野氏は「赤松氏は、渡嘉敷島の集団自決の歴史の中で、悪の権化のように書かれている。私はそれまでの人生で絵に描いたような悪人に出会ったことがなかったので、もし本当にそういう人物が現世にいるなら是非会ってみたい、と考えたのが作品の出発点である」と語っている。

曽野氏はこの事件の現存する関係者に徹底して取材をしている。
この本のまえがきにある言葉である。

「この事件は、調査を進めるに従って、その多くの部分が推測の範囲で断罪され、しかも推測の部分ほど断罪の度合いも激しくなっている、という一種の因果関係が見られるように思う。繰り返すようだが、神と違って人間は、誰も完全な真相を知ることはできないのである。ましてや比類ない混乱と危険の中であった。

一般に「そのことをした」という証明は物的にできる場合があるが、「そのことをしていない」という証明はできにくいと言われる。従って私ができたことも大きな限界があった。

私は、「直接の体験から『赤松氏が、自決命令を出した』と証言し、証明できた当事者に一人も出会わなかった」というより他ない。と一つの結論を提示している。

ところで集団自決はどのように行われたのか。
「鉄の暴風」に書かれた凄まじい集団自決の記述である。

『危機は刻々と迫りつつあり、・・・・各々親族がひとかたまりになり、一発の手榴弾に、2、3十人が集まった。瞬間、手榴弾がそこここに爆発したかと思うと、轟然たる不気味な音は、谷間を埋め、瞬時にして老幼男女の肉は四散し、阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された。

死にそこなったものは棍棒で頭を打ち合い、剃刀で自らの頸部を切り、鍬や刀で親しい者の頭をたたき割るなど、世にも恐ろしい情景がくり拡げられた。谷川の清水は、またたく間に血の流れと化し、寸時にして394人生命が奪い去られた。』

軍隊が地域社会の非戦闘員を守るために存在すると言う発想は、極めて戦後的なものである。軍隊は自警団とも警察とも違う。軍隊は戦うために存在する。
作戦要務令綱領に「軍の主とする所は戦闘なり、故に百事皆戦闘を以て基準とすべし」とある。

渡嘉敷の問題は日本軍、米軍ともに、人間の死を恐れない。という集団発狂の中で起きたのである。

玉砕当事者の曽野氏によるインタビューである。
T「残したら、又敵のてにかかると困ると思って。もうみんな、うちの近い方々は、みんなやっつけて行ったんですよ。大城良平さんの奥さんなんかも、うちの父がやったと思います」・・・・・・

A「あの時のみじめさったら、なかったです」
B「人より先に、楽に死んだほうがいいんじゃないね、と言ったですよ」
C「私たちは、食べるもの背負っているんですけどね。私の姉さんは、一人子供いるから、これをおんぶして、たんじぇん(丹前)きてた。寒いですからね。雨は降るし、丹前はおもくなるし・・・」
D「そのときに、多くの人が気狂いになったですね。おばあさんたちなんかは、うちのお母さんなんかも、気狂いのようでした」
B「夢か何かわからんですね」
・・・・・・・・・・
B「あのね、みんな家族のうちで、家庭内のうちで誰かが・・・」
A「軍から命令しないうちに、家族、家族のただ話し合い」
B「海ゆかばうたいだして」
C「芝居みるように人を殺したですね、天皇陛下万歳も」

まさに米軍の激しい攻撃の中、狂気の中の前後不覚、夢の中で起きたことのような惨状が現実にあったのだ。

曽野氏は取材を通じ沖縄の問題をあげた。
沖縄を語る時、広島、長崎と違うのは、本土という表現である。
この、集団自決を語る時、常に沖縄は正しく、本土は悪く、本土を少しでもよく言うものは、すなわち沖縄を裏切ったのだと、というまことに単純な論理があるという。

曽野氏は、赤松隊長に「責任」を要求する場合、軍人として作戦上の過ちがあったかなかったかではない。とし、「責任」の本質は実はそこから始まると言う。
あの一つの島で、あれだけのことが起きてしまった、その現場に居合わせたことは、確かに赤松氏の「不運」でもあったであろう。しかし、そこで起きた現実の前に改めて、人間として感ずべきものが本来の「責任」だという。

極めて厳しい言葉である。
しかし、人間としての責任は他人が「感じろ」と強いることができないものなのである。それは神の領域だとし、告発についても、自分が正しいことをしているという自信がある場合にのみ可能だと。カトリック教徒の曽野氏は語る。

戦争、その中でも生きるか死ぬかの極限状態にあった人間に起こりうること、死をも恐れないという精神状態が漠然と理解できるような気がしてきた。

しかし、米軍は、この島に非戦闘員が住んでいることを充分知っていた。すでにサイパンで追いつめられた日本の婦女子がどのような最期を遂げたかも知りつつ、米軍は島の山容が変わるほど砲撃を撃ち込んだのである。誰が悪いかと言えば、最も残忍なのは米軍であろう。と曽野氏はいう。

曽野氏の本にあるエピソードだ。

『玉砕の直後、死に損なった人々のところへアメリカ兵が来た。母親を失った十二歳の少女がいた。一番下のきょうだいは、二歳の乳呑子だったが、死んだ母の乳房にすがっていた。

アメリカ兵は生き残った三人の姉妹に黙ってチョコレートをくれた。それを見ていた年上の女たちは十二歳の少女に「食べてはいけないよ。毒がは入っているから。」といった。十二歳の少女はじっと考えていた。

どうせ皆死んだのだ。お母さんも死んで弟におっぱいもない。死ぬならこの毒入りのチョコレートを与えて死なせればいい。
十二歳の少女は、チョコレートを取り、死んだ母親の乳房にすがっていた弟に与えた。

その時、それを見守っていたアメリカ兵は突然、激しく泣き出したのであった。少女はその涙を、後々まで決して忘れなかった。』

沖縄で起きた戦争末期の集団自決。曽野綾子氏の丹念な調査によって若干、実相を知り得たように思う。
しかし、集団自決が残した沖縄問題、形を変え今に引き継がれている。

人間の尊厳に起因する傷痕は世紀を超えてなお消えることはないのだろう。

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