勝利の価値

スポーツ 雑記

Vol.1-8.31-230   勝利の価値
2020.08.31

何の番組だったか忘れた、今朝か昼過ぎかも記憶にない。
いよいよ認知直前か?

たまたま見たテレビである。
2016年リオ・オリンピック、井村雅代監督率いるシンクロナイズドスイミングの厳しい練習に耐え、銅メダルを獲得したダイジェスト版のような番組をやっていた。

すべてを見たわけではないが、ロシア、中国など強豪がひしめく中で彼女たちは銅メダルに輝いたのである。

その練習は厳しいと言うものではない。厳しさを超え過酷と言った方がふさわしい。
練習の一部、それも数分に短く編集された画面からも、選手もコーチも大げさでなく命の限界に挑戦するギリギリ感が伝わる。

井村コーチの言葉である。
「一生懸命だけじゃダメなんです、限界を超え地獄を見た時に超える力が必要なんです」それでなければ世界を制することが出来ない。
オリンピックという世界はそれほど甘くないということだ。

現場で選手の練習を見たわけではないが、映像から伝わる風景は決して楽しそうではない。井村コーチの激しい叱声が飛ぶ。現実は見た目よりさらに厳しいことであろう。
泣き崩れる、自信を失う、水が嫌いになる、夜うなされる、やめたい、中には死にたいと思うこともあると推察する。

その厳しい練習の中でも、井村コーチは決してムチを与えるだけではなかった。
一人一人に話しかけ、小さな成功体験をほめながら何度も何度も繰り返し、気の遠くなるほどの成功体験を積み重ねる。振り返れば雲の上まできたというとてつもない階段を上がらせるのである。

メダルを取った時の彼女たちの興奮は、それこそ「もう死んでもいい」と思うほどの陶酔があったであろう。

それが、スポーツの『勝利』である。

偶然である。
今日の紙面に「勝利至上主義」は悪幣か。と題したコラムがあった。

「勝利至上主義」は、おおむねスポーツの暗部を象徴する言葉として使われる。それは体罰や、高校野球投手の肩の酷使といった不都合の元凶として目の敵とされる。五輪批判の際には「メダル至上主義」と言葉を変えることもある。

だが、勝利を目指さない競技があり得るのか。「五輪は勝つことより参加することに意義がある」と言われるが、多くの勝利を重ねなくては参加できない。公認野球規則は「試合」を「相手チームより多くの得点を記録して、勝ことを目的とする」と規定している。

相撲の玉の海梅吉は
「勝利を求めないなら、それは “敗退行為” であり、すなわち八百長を意味する。・・・相撲は単純な格闘技。そこに真剣で純粋なものがなければ何らのショー的価値もない」と言っている。

上皇陛下が皇太子時代にその教育係を務めた元慶応大学塾長、小泉信三の随筆集に名文がある。

『運動競技の弊害を防ごうとして、仕合には勝たなくても好いと説くものがる。・・・人情とかけ離れた机上の空論たるを免れぬ。・・・フェアプレイが尊いのは、試合に勝つことに価値があるからである。勝っても負けてもどうでも好いものならば、わざわざフェアプレイを説くに及ばぬことではないか

試合には是非勝て。しかし卑怯な汚い真似は間違ってもするな」

という小泉信三の言葉である。

いつの頃からか、高校野球の「宣誓」に、戦うという言葉が消えた。
「正々堂々と試合することを誓います」なんていう言い方が主流を占めるようになった。

戦うとは、戦争をイメージするからであろうか。しかし戦争を知らない子供たち、それも平成生まれの高校生が、戦い=戦争をイメージするであろうか。
まさしく先生か一部大人たちの余計な知恵が純粋な戦いの気持ちを汚した例であろう。

スポーツの勝利者、闘いの場が大きければ、大きいほど、その努力は常人がはかり知れないほどの過酷を通り過ぎている。
だからこそ、人々が熱狂し陶酔するほどの感動を与えるのである。