大相撲、神事と美学
Vol.1-10.3-263 大相撲、神事と美学
2020.10.3
相撲は日本の宗教である神道と密接なつながりがある。
相撲の神様といわれる野見宿禰(のみのすくね)の伝説がある。
『今から2000年近く昔の話。出雲国に、野見宿禰という人がいた。野見宿禰は、たいへん力の強い人で、しかも学問にすぐれていた。
そのころ、大和国には、当麻蹴速(たいまのけはや)というこれも大変強い人がいました。相撲をとると、蹴速にかなう人はいない。
そこで天皇は、野見宿禰を大和国に招いて、当麻蹴速と相撲をとらせることにした。二人とも力いっぱい戦い、宿禰は、みごとに蹴速を倒した。垂仁天皇は大変喜び、野見宿禰は領地をもらって、天皇につかえることになった。
この「野見宿禰説話」を起源として、奈良時代以降、宮中で相撲が行われるようになり、これを五穀豊穣、天下泰平を祈念する神事として発展させたことが原点であると考えられている』とある。
という訳で相撲は神事から始まった。したがってそれぞれの所作に意味がある。
◆「塩まき」によって土俵の邪気を祓い、土俵を清め、神に祈るという意味がある。
◆「蹲踞(そんきょ)」土俵に上がった力士がまず取る姿が「蹲踞」。この姿勢は相手に対して敬いの念を示すという意味がある。
◆「塵(ちり)」をきる。「蹲踞」に続いて力士は柏手を打ち、両手を大きく広げる動作をとる。これを「塵をきる」といい相手に対して刃物などを持たず、正々堂々と戦うことを示している。
◆「四股(しこ)」力士は四股を踏むことで地中に潜む邪気を祓っている。
◆「力水(ちからみず)」一度塩をまきに行った後、前の取組で勝った力士から水をつけてもらい、口をすすいで身体を清める。その後、桶に備えてある「力紙」で顔や身体をめぐって再び土俵へと向かう。
「仕切り」というのは立ち合いまでの呼吸を合わせる所作。
「立ち合い」というのは、力士同士がお互いの合意によって呼吸を合わせて立つ。
幕下以下は2分、十両は3分、幕内は4分となっており、この時間内で仕切りは行われる。
いよいよ制限時間いっぱい、行事軍配が正面に向け「軍配が返った」時、
アナウンサーは「さぁ~軍配が返りました!」
行司は「待ったなし!」 「手をついて!」
両力士が蹲踞の姿勢から立合う緊迫した瞬間である。
15尺(4.55m)という小さな円の中で巨大な力士の戦いが始まる。
短期決戦が当たり前という勝負の性質から、俗に「立合いで八割が決まる」といわれる。
この仕切り、制限時間はあるがいっぱいまで待つ必要はない。お互い呼吸が合えば、時間前に立ってもいいのである。しかし、最近はこの時間前に立つ力士がいなくなった。
制限時間いっぱいになった時、気合を入れる仕草はそれぞれあるが、時間前に立つスリルが今はない。仕切り中に10秒も睨み合って動かないという役者もいなくなった。
さらに言えば、仕切りの美しさである。
四股を踏むときの足を高く上げる美しい四股も「阿炎」程度で他の力士に見られない。ただし高く上げればいいということでもない。美しい早さが必要である。早くても遅くてもいけない自然の動きの中の早さだ。美しさは難しいのである。
最近、白鵬や一部の力士に見られる、蹲踞の時に手のひらを上にして膝の上にのせるしぐさが気になる。手に何も持ってませんよということならば、「蹲踞」に続いて「塵をきる」動作の中にその意味をすでに示している。敢えてそれを意識したのであれば無駄な動きである。
相撲の所作は伝統の中で培った意味があるのだ。美しさはそぎ落とされた所作の中にあるといっても過言ではない。
手の返り一つとっても自然な美しさを追求してほしいと最近つくづく思う。そのことを相撲協会も親方も意識してないとすれば、神事である相撲の神髄を軽視しているのではないかとさえ思う。
日本人が日本の伝統を守らなくてどうする。長い間日本人横綱不在である。相撲道及び神事であるという誇りと伝統の伝道者の自覚は日本人が持たなくてはならない。
ただの格闘技ではない。花道から土俵に入る「礼」、去る時の「礼」の美しさも、土俵に神が宿ると思えば、お辞儀一つも落ち着いた仕草が必要なのである。それすら美しいと言わせる力士はいない。
勝負が終ってお互いが闘いを讃えあい勝者も敗者も真摯に向かい合って礼をする。もう少し落ち着いて「礼」ができないものかと思う。
勝った力士が行事から頂く懸賞金も、行事が軍配を下ろす前にすでに手が出る醜さ、すべてがせっかちに見える。神事と言う意識がないのである。悲しい事である。
相撲が盛り上げるのは、闘いの中だけではない。翔猿のような力士の存在だけではない。
神宿る土俵への畏怖の念を抱いた数々の仕草の中にも厳かで、美しきと強さを宿していなければ、力士は只の太った格闘家である。
未だ破られていない双葉山の69連勝。その双葉山は名言を数多く残しているが、すべてに含蓄のある言葉だ。その中でも、双葉山を語る上で欠かせない言葉が、『我、未だ木鶏たりえず』である。連勝が69で止まった時、「ワレイマダモッケイタリエズ」と思想家・安岡正篤に打電している。
双葉山は正しく相撲を通して人間双葉山を世に残した偉大な思想家でもあった。
力士たちよ!神事に恥じない、美しさと強さを追求せよ、と言いたい。